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「味スタには行くけれど……」京王線の“ナゾのスポーツ駅”「飛田給駅」には何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2020/09/20 10:00
京王線の“ナゾのスポーツ駅”飛田給駅には何がある? 平日昼間に訪れてみた
飛田給駅は、京王線の調布駅よりふたつ西、甲州街道(国道20号)のごく近くにある小さな駅だ。イベント時には特急や準特急が臨時停車することが多いが、普段は急行や特急は停まらない。そのあたりからも、様相が一変する駅だということがわかる。実際、通勤通学の時間帯も過ぎたお昼頃になるとホームにはほとんどお客の姿はなく、イベント対応のための広々とした橋上駅舎のコンコースにも人影は少ない。この姿の飛田給駅しか知らなければ、施設の規模がなぜか過大のナゾの駅、と断じてしまうかもしれないほどだ。
その“ナゾ感”、味の素スタジアムのある北口へ出ても変わらない。駅前の広場がこれまた広いのだ。なんだか無駄にスペースのある広場を囲むようにして、ファーストフード店にコンビニ。さらにスタジアム通り沿いにも居酒屋やファミレスが何軒も連なる。
だいたいこうしたスタジアム近くの店となると、試合後に連れ合いと行こうと思っても満席が常。「すみませ~ん、お待ちいただいて……一応2時間制なんですけど……」などと店員さんに申し訳なさそうな声で言われたりする。で、諦めてひとまず新宿まで出るか、となってしまう。そんな繁盛店も、平日のお昼のお客は少ないようだ。FC東京のフラッグはためくスタジアム通りからひとつ横道に入るといわゆる東京郊外の住宅地なのだから無理もない。
あの大手ゼネコンの研究所が……
しかし、駅の周辺を少し歩いてみると、単にスタジアムだけの駅というわけでもないことがわかってきた。スタジアムとは反対側の南口のすぐ前には、大手ゼネコン・鹿島の技術研究所。1986年発行の『東京地名考』(朝日新聞社社会部編)の「飛田給」の項にもこの研究所の存在が書かれているので、それなりの歴史があるようだ。なんでも、日本初の超高層ビルとして名が轟く霞が関ビルディングもこの研究所で培った技術のおかげで建てられたのだという。霞が関ビルの竣工は1968年のことである。
この鹿島の研究所で働く人のうちいくらかは、帰宅前に飛田給の居酒屋で1杯やることもあるのだろう。昼食にこのあたりのファミレスを利用する機会もあるに違いない。小さな町の飲食店もいくつかあり、日常的にある程度の需要があるだろうことも教えてくれる。
飛田給(とびたきゅう)の名前の由来は?
とはいえ、飛田給駅の本質は東京郊外の住宅地の中の駅であるといっていい。飛田給駅が開業したのは1916年。古くは飛田給村と呼ばれた甲州街道沿いの小さな村の駅だった。難読の駅名の由来は奈良時代に荘園を管理していた飛田氏より与えられた給田がこの地にあったことからという説と、奈良時代に困窮者救済施設・悲田院の給田がこの地にあったことからという説があるようだが、確かなことはわからない。