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「味スタには行くけれど……」京王線の“ナゾのスポーツ駅”「飛田給駅」には何がある?
text by
鼠入昌史Masashi Soiri
photograph byMasashi Soiri
posted2020/09/20 10:00
京王線の“ナゾのスポーツ駅”飛田給駅には何がある? 平日昼間に訪れてみた
いずれにしても、街道筋の小さな村は鉄道開通・駅開業によって住宅地へと変貌をとげた。それでも当時はたくさんの人が降りるような名所などは持たない駅だった。現在の広々とした駅舎や駅前広場ができたのは2001年で、味の素スタジアム(当時は命名権売却前なので東京スタジアム)開業にあわせてリニューアルしたものだ。100年を超える飛田給駅の歴史の中で、多くの人が遠方からもやってくるようになったのはここ20年ほどのことなのである。
駅の周辺を歩けば、しばらく前からありそうな住宅がちらほら。そうした人たちにとっては、突如としてスタジアムができて週末にはたくさんの人が乗り降りするようになったのだから、それはもうおったまげたことだろう。
1964年東京五輪と飛田給駅の“不思議な関係”とは?
ところが、かつて一度、まだ小さな住宅地の駅に過ぎなかった飛田給駅が脚光を浴びたであろうできごとがあった。1964年、東京オリンピックである。半世紀と少し前のオリンピックのマラソン競技、折り返し地点がちょうど甲州街道の味の素スタジアムのあるあたり。つまり、飛田給駅から5分ほどの場所だった。裸足のアベベが靴を履いていることに沿道の観客が驚き、円谷幸吉が銅メダル。「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と遺書を残してこの世を去る3年と少し前の栄光だった。そんな、歴史に刻まれたイベントのひとつのハイライトシーンが飛田給駅のごく近くであったのだ。当時の沿道の観客の多くは近隣住民や招待された子どもたちだったようだが、中にはアベベをひと目見ようと飛田給駅から足を運んだ人もいたに違いない。
その頃には味の素スタジアムなどもちろん影も形もない。現在のスタジアム周辺には関東村と呼ばれる米軍施設・住宅群があった。1941年に調布飛行場が設けられて主に陸軍に使用され、戦後は米軍が接収して調布基地となる(ユーミンの名曲『中央フリーウェイ』で“追い越す”調布基地はこれのことだ)。オリンピックに際してワシントンハイツが選手村になることで米軍関係者が移転してこちらに居を構えた、というのが大まかな歴史である。旧調布飛行場一帯は1973年に返還され、一部は飛行場として再開して現在も大島や新島に定期便が飛ぶ。残りは関東村跡地として長らくほったらかしだったが、味の素スタジアムなどのスポーツ施設や東京外国語大学、警視庁警察学校などに生まれ変わったのである。
味の素スタジアムは来年に延期になった東京五輪でも、サッカーなどの会場になることが決まっている。半世紀前のオリンピックでもアベベと円谷が走った町だから、スポーツとの縁は深いものがある。戦後日本の成長を象徴する超高層ビル建設の技術を生み出した町という一面もある。こうした歩みを変わらずに見つめてきたのが、いまや、味の素スタジアムの玄関口として知名度を得た飛田給駅なのである。
(写真=鼠入昌史)
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