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箱根駅伝で“世紀の大ブレーキ”…元順大・難波祐樹が《京大合格約30人》京都の公立進学校を大躍進させるまで「あの失敗があったからこそ…」
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byJIJI PRESS
posted2024/01/21 11:02
2006年の箱根駅伝、先頭をひた走っていた順大にまさかのブレーキが起きたのは8区。ランナーは主将の難波祐樹だった
「井上先生からは『動きを見ろ』と。『動きを見て、その子が伸びるかそうでないかがわかるようになったら、 絶対指導者として花開くから。そういう目を養え』と。それはずっと言われていましたね」
もちろんそれは単純な「走りの動き」だけを指すのではなく、様々な日常生活での動き方、取り組み方も同様でもある。難波には、印象に残っているある選手がいるという。
「東京五輪のマラソン代表で補欠に入った大塚祥平(駒大→九電工)と3年間一緒だったんですけど、『あぁ、日本のトップで活躍する選手はこういう子なんやろな』と思わせてくれる選手でした」
中学時代はサッカー部だった大塚は、もちろん最初からタイムを持っていたわけではない。それでも、高校の環境の中でどんどん強くなっていった。
「動きはもちろんですけど、メンタル面のムラが全くないんです。どんなときでもコツコツコツコツ、泥臭く練習を続けられる。こういう選手はやっぱり強くなりますよね」
地元・京都に戻り、最初の赴任校での経験
大分で5年間の指導生活を経た後、京都府の教員採用試験に合格し、地元へと戻った。
最初に配属されたのは京都府立南丹高校だった。
「いまの洛北高のような超進学校というわけでもなく、部活動がものすごく盛んというわけでもない。本当に“普通の公立校”でした。最初は何にもないところからのスタートという感じで」
大分の経験から、選手を見る目は養えた自負はあった。光るものをもった選手がいれば、当初はよくある「部活の顧問」らしく、積極的に指導をしてみたこともあったという。
ところが、それではなかなか結果が出なかった。
試行錯誤を繰り返し、それでも結果が伴わない中で、時には「もう無理か」と思うことすらあったという。ただ、そんな中であることに気づいた。
「結局、選手が自分で『強くなりたい』と思わないことには、こちらがいくら頑張っても伸びないんですよね。いま僕は“自主性”とか、“自分で考えなさい”とか、そういう言葉を口酸っぱくして言っていますけど、その原点はこの南丹高校時代の経験にあったと思います」
自分が練習に口を出すよりも、選手の自主性に依る割合を増やす。
その代わり、高い目標を持つ重要性を説く事に力を入れた。トレーニングそのものではなく、その前提となるマインドセットの構築に注力するようにした。
すると、不思議と結果が出始めた。