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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「あんたの犬じゃない!」ラモス瑠偉がいま明かすオフト監督との衝突秘話「森保にボールを要求しても…」「ドーハの悲劇は“悲劇”なんかじゃない」
posted2023/12/18 17:01
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
Shigeki Yamamoto
ラモス瑠偉は怒っていた。
1992年3月、サッカー日本代表史において初めてのプロ契約外国人監督となる、オランダ人のハンス・オフトが就任。スモールフィールド、トライアングル、アイコンタクトを掲げて最初の浜名湖合宿ではプレー中に止めては細かく指導するスタイルの新監督とはハッキリ言ってソリが合わなかった。
「あの人は指笛を使うから、イライラして“あんたの犬じゃないないんだぞ”って周りにも聞こえるような声で言ってやったんだ。オフトが通訳を呼んで“瑠偉は何と言ったんだ”と聞いていたね。今の時代なら私はもうそこで外されていたよ」
代表は1人や2人のものじゃない――。オフトが放ったその言葉は、ほかならぬラモスに向けられていた。いつだって“噛みつく”準備はできていた。
Jリーグ開幕前年とはいえ、日本代表がアジアで勝てないとあってはサッカー熱が高まっていくにも限界があった。その殻を破るべく、元オランダユース代表コーチでJSLのヤマハ発動機、マツダで指導実績を持つオフトに白羽の矢が立ったわけだが、そもそもこの人事に不満があった。
あのときも怒っていた。
1977年に来日して読売クラブを強豪に引き上げた彼は外国人枠を空ける目的もあって1989年に帰化し、日本代表監督を務める横山謙三から打診を受け33歳にして1990年の北京アジア大会で代表デビューを果たした。準々決勝でイラン代表に敗れたものの、ラモスの目にはまずもって代表チームが臨む姿勢とは思えなかった。
感情を抑えるだけで精いっぱいだったという。
「あれじゃ遠足と同じよ。試合が目の前にあるのに、緩い雰囲気のまま。この人たち、日本代表の誇りないの?と思った。カズ(三浦知良)も私も何もできなくて、哲ちゃん(柱谷哲二)も違うと感じていたんじゃないかな。日本に戻って空港に着いたときに横山監督に代表、辞めますと伝えた。そうしたら、分かった。お前と話をしたい、と。何日か後に連絡があって協会に行って、感じたことをありのままにしゃべった。そうしたら横山さんが、これから代表は変わるから来い、と言ってくれてね。本当に変わったよ」
「森保にボールを要求しても…」
雰囲気がガラリと変わっていくなかでラモスは攻撃において裁量を与えられ、1991年6月のキリンカップではタイ代表、のちにヴェルディ川崎でチームメイトになるビスマルクのヴァスコ・ダ・ガマ、ゲーリー・リネカーのいるトッテナムに対して3連勝を飾って優勝を遂げる。“支持率”が低調だった横山ジャパンの風向きが変わるかと思われた。しかし翌月の日韓定期戦に敗れたことで一気にトーンダウン。結局は監督交代を余儀なくされ、オフトに至る経緯があった。