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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「1回のチャンスを私にくれ」ラモス瑠偉が語った“傷だらけのループシュート”の真相…Jリーグ30年史に残る伝説のゴールはこうして生まれた!
posted2023/12/18 17:02
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph by
Shigeki Yamamoto
足の状態はもはや限界を超え…
ラモス瑠偉は泣いていた。
Jリーグ2連覇を懸けて臨んだサンフレッチェ広島との1994年、チャンピオンシップ。シーズン終盤に起こした左足大腿部肉離れを抱えながら広島・ビッグアーチでの第1戦に出場してヴェルディ川崎の勝利に貢献した後、グラウンドから消えた。1週間後の第2戦を控え、彼は長野にいた。旧知のドクター、武井経憲のもとで治療を行なうためだった。
「毎日、中国針で治療してもらった。5mmと言うんだけど、本当にそうなのって思うくらい太くて痛かったね。午前も午後もずっと治療。一生懸命にやってもらったのに、全然良くならなくて。第2戦はダメかなと思って、武井ドクターにもう帰りますと言った瞬間に涙が止まらなくなった。歯がゆいし、悔しいし……何とも言えない感情だったね」
ダメ元で治療に臨んでいた。肉離れが原因でセカンドステージ優勝を決めた国立での浦和レッズ戦には出場できていない。チャンピオンシップ第1戦に照準を合わせて調整して北澤豪の決勝点をアシストする活躍を見せたものの、足の状態はもはや限界を超えていた。
「そのとき痛み止めの注射を打たなかったのは、痛みを忘れてプレーすると本当に筋肉が切れてしまうから。それくらいの症状。テーピングをぐるぐる巻きにしたけど、案の定少し切れていた」
セカンドステージに入って実質的に指揮を執っていたコーチのネルシーニョから試合後に呼ばれ、これから練習に参加しないでいいから治療に専念して試合前日に戻ってきてほしいと伝えられていた。妻の初音に連絡して着替えを用意してもらうと長野に直行。悲鳴を上げている37歳の肉体に、奇跡を期待すること自体、無理があった。実は泣いて断念しようとした日以降も、帰らずに治療に励んでいた。精神的にもギリギリの状況ながら、結局やれることはすべてやった。
ネルシーニョから「5分だけ試合に出てくれ」
試合前日、約束どおりチームが前泊するホテルに入った。チームが夕食を取る最中に現れ、まずネルシーニョのテーブルに向かった。
「左足の状態はどうだ?」