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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「あんたの犬じゃない!」ラモス瑠偉がいま明かすオフト監督との衝突秘話「森保にボールを要求しても…」「ドーハの悲劇は“悲劇”なんかじゃない」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byShigeki Yamamoto
posted2023/12/18 17:01
1992年のアジアカップ優勝や93年のドーハの悲劇について、日本代表の10番を背負ったラモス瑠偉が赤裸々に明かした
「イランは強いし、相手をイライラさせるのも時間を使うのもうまい。一番難しい試合になると最初から思っていた。このイランに勝ったことがすべて。全員が自信を持てたんじゃないかな」
準決勝の中国代表戦はGK松永成立の退場で窮地に立たされながらも、3-2と競り勝ち、そしてサウジアラビア代表との決勝も1-0で勝利して初優勝を収める。プレッシャーから解放されたラモスの喜びは言うまでもなかった。
ユニフォームの袖に入った日の丸が揺れていた。代表カラーが赤から青に変わり、日の丸が入ってなかったことに異議を唱えたのがラモスであった。
「協会にも日の丸つけないならJSL選抜でいけばいいって言った。日の丸をつけて戦って、ワールドカップに行きたい。思ったことを言ったまで」
日本代表の誇り――。それがあるから一つになって戦える。アジアカップの優勝がその成功体験になり、今の日本代表につながっていることは言うまでもない。
日本のため、そしてオフトのためにワールドカップに行く。ラモスはその思いだけで30代半ばの肉体に鞭打って戦い続けた。そしていつしかオフトとは何でも話し合える関係性になっていた。
「ドーハの悲劇」ってみんな言うけど…
1993年10月のアジア最終予選。勝てばワールドカップの切符をつかむことができる最後のイラク代表との一戦は後半ロスタイム、イラクのショートコーナーから失点を喫して同点に追いつかれ、夢が潰えてしまう。ラモスはピッチに力なく座り込み、しばらくの間立てなかった。
インタビュー中、カプチーノの入った紙コップを手放さなかったラモスはそっと机の上に置いてから語った。
「私にとってオフトは兄貴ですよ。生意気な態度を取っていたんだから外しても良かったのに、逆に信頼してくれた。選手としても、一人の人間としても認めてくれた。感謝しかないですよ。
『ドーハの悲劇』ってみんな言うけど、私から言わせれば悲劇じゃないよ。だってアジアで勝てなかったチームがダイナスティカップで勝って、アジアカップで勝って、それでJリーグも盛り上がった。(木村)和司たちが頑張って、その次に私たちがワールドカップに手が届きそうなところまで行った。自分たちが成長していけば全然やれるんだって、そこから中田(英寿)たち次の世代の選手たちが出てきた。だから残せたのは悲劇なんかじゃなく、次へのメッセージだったんじゃないかな」
「ドーハの悲劇」前夜にあったラモスとオフトの衝突と協調。日本代表のためにぶつかったそのエネルギーが日本を強くした。怒るラモスが日本を目覚めさせ、その先に飛躍する代表ストーリーがあったのだ。
<後編に続く>
(取材協力・角田壮監)