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「ライバルが姉からキム・ヨナへ」浅田真央が語る“人生で一番大変な試合”「スケート人生すべてをかけて、命をかけて戦いました」《NumberTV》

posted2025/05/08 11:05

 
「ライバルが姉からキム・ヨナへ」浅田真央が語る“人生で一番大変な試合”「スケート人生すべてをかけて、命をかけて戦いました」《NumberTV》<Number Web> photograph by Asami Enomoto

浅田真央がNumberTVで自らの「挫折地点」について明かした

text by

野口美惠

野口美惠Yoshie Noguchi

PROFILE

photograph by

Asami Enomoto

 競技者の枠を超え、日本中から愛されたスケーター・浅田真央。「一番のどん底」と語るのは、あの五輪での記憶だった。「Sports Graphic Number×Lemino」制作のドキュメンタリー番組NumberTVから特別記事を掲載する。<全2回の後編/前編も公開中>

初めての五輪で銀メダル

「姉はどちらかというと綺麗に表現するタイプで、私はジャンプが好き。姉に勝つにはすごいジャンプをやらなきゃと子ども心に思って、それがトリプルアクセルでした。習得には2年かかって、初成功は小学6年生のとき。『やっと自分の強みが出来たな』と思いました」

 武器を手に入れた浅田は、怖いもの知らずの戦いを繰り広げた。

「まさに無敵でした。全国中学校大会で姉にやっと勝てて、そんな私の前に現れたのがキム・ヨナ選手。初めて同じ試合に出たときに『ああ、この選手とこれから戦っていくんだな』と直感しました。ライバルが姉からヨナ選手に変わったんです」

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 05年世界ジュニアは浅田が優勝、キムが2位。06年同大会は順位が逆転。戦いが激化していくなか、初の五輪となる10年バンクーバー五輪は、トリプルアクセル3本を成功させて銀メダルを獲得した。

「その時期は、試合を重ねるごとに恐怖も生まれ、体型や身長の変化もあり、精神的な歯車が合わなくなっていきました。楽しかったはずのスケートは『勝たなきゃいけない』ものに。でも当時は、挫折という意識はなくて『どんな事があってもやるしかない。突き進むんだ』と考えていました。まだ19歳でしたが、自分のスケートのすべてがプログラムに出たと思います」

人生の中で「一番大変な試合」

 そして浅田が人生で「一番のどん底からの、一番の最高」として挙げたのは、4年後のソチ五輪。ショート16位と出遅れ、フリーは渾身の演技で挽回した、あの大会。

「人生の中で一番大変な試合でした。ベストワンです。フリーの演技のとき、前日のショートの恐怖が鮮明に残っていました。佐藤信夫先生は『何かあったらすぐ助けに行くから』と言ってくださり、姉からも電話があり、最終的には自分を信じることができた。フリーは自分の力だけではありませんでした。昔はただ楽しくて、姉に負けないとか、自分の目標のためにやっていた。でもソチ五輪のあの演技は、スケート人生すべてをかけて、命をかけて戦いました」

 2016年12月の全日本選手権を最後に競技から退くと、第二のスケート人生では、座長として3つのアイスショーを敢行。昨年秋には、自身の名前がつく『MAO RINK TACHIKAWA TACHIHI』が東京・立川市にオープンした。

「これも自分が生まれてきた使命。いずれ、『MAO RINK』で初めてスケートをして、成長して、五輪で金メダルをとれるスケーターが誕生したら、私のスケート人生の最終地点です。私の第3章は、指導者として子どもたちにたくさんの愛を注げたら。私のタイプ的に厳しい指導者になるかも知れませんが、子どもたちにはスケートが楽しいという気持ちは忘れないでほしいです」

 たくさんの挫折を「やるしかない」とパワーに変え、進んできた。根本にあるのはスケートへの愛。その真髄を伝えていく。

前編から続く>

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