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箱根駅伝を走れず引退した青学大ランナーは、なぜ“脱サラ”してトレイルランナーになったのか?「神野(大地)さんから話を聞いて1週間で会社をやめました」

posted2023/06/04 11:00

 
箱根駅伝を走れず引退した青学大ランナーは、なぜ“脱サラ”してトレイルランナーになったのか?「神野(大地)さんから話を聞いて1週間で会社をやめました」<Number Web> photograph by Nanae Suzuki

青学大の箱根4連覇を1~4年で経験した田村健人。箱根駅伝には走れず、引退した田村はなぜ再び走ろうと思ったのか

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佐藤俊

佐藤俊Shun Sato

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Nanae Suzuki

 4月22日のウルトラトレイルマウントフジ「KAI」(69.2km)で初優勝した田村健人は、青学大陸上競技部出身のトレイルランナーである。だが、田村自身は4年間で一度も箱根駅伝を走ることができなかった。鳥取から上京し、箱根を走ることを目標にしたが、夢叶わず卒業後は走る世界から離れて一般企業に就職した。その後、青学大の先輩の“3代目山の神”神野大地、歴代最高主務と言われた高木聖也との再会により、“脱サラ”し、トレイルランの道へ。世界最高のレースであるウルトラトレイル・デュ・モンブラン(UTMB)での優勝を目指す田村健人とは、いったいどんなトレイルランナーなのか――。(全2回の1回目/#2も)

「期待枠ですかね」

 田村は、そう苦笑した。

 当時、青学大の特待生の基準は5000m、14分40秒だった。高校生の田村は3秒たりなかったが、原晋監督の「可能性を信じて」という判断で青学大への進学が決まった。

順調だった成長曲線

「その頃、青学大はシード獲得というところだったので、特に先輩や同期とかも気にせずに入学したんですけど、いざ入学して練習をするとついていくのがやっとという感じだったんです。正直、みんな、すごいなぁと思いましたが、そういう強い人と比べても仕方ないので、まずは自分をレベルアップできればという思いで練習していました」

 田村が自分と向き合い、自らのレベルアップに注力したのは箱根駅伝を一度は走りたいという思いからでもあったが、一方で青学大には厳しいルールがあったからでもある。2年から3年に進級する際、5000mで14分35秒を切れないと引退か、マネージャーへの転身を迫られるのだ。

 さいわい、小学生時代は短距離が得意で中高もスピードタイプの選手だったので、2年の7月には14分28秒23のPB(自己ベスト)を出すなど順調にステップアップしていった。だが、1、2年時は駅伝のメンバーに引っかからなかった。

4年時は寮長に

 3年になると焼津みなとマラソンのハーフ大学生の部で優勝し、関東インカレのハーフマラソンに出場、12位という成績だった。関東インカレに出場できる選手は部内で選ばれた選手で、田村への期待も大きかった。夏合宿も順調に終え、全日本大学駅伝では出走は叶わなかったが、初めてエントリーメンバーに入った。

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