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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
箱根駅伝を走れず引退した青学大ランナーは、なぜ“脱サラ”してトレイルランナーになったのか?「神野(大地)さんから話を聞いて1週間で会社をやめました」
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byNanae Suzuki
posted2023/06/04 11:00
青学大の箱根4連覇を1~4年で経験した田村健人。箱根駅伝には走れず、引退した田村はなぜ再び走ろうと思ったのか
「チームの中では、関東インカレに出て、全日本のメンバーにも選ばれて、存在感を上げられたと思ったんですが、箱根駅伝を走るにはあと一歩足りなかった。この時はさすがに走るのが嫌いになりそうでした」
4年時、最後の箱根駅伝に向けてスタートする際、田村は寮長になった。
「役職は、同学年での話し合いで決めるんですけど、『寮長は田村だよね』って感じで、特に話し合う事もなく簡単に決まりました。たぶん、寮母の原監督の奥さんと仲が良かったり、みんなとよく話ができるので選ばれたって感じです(笑)。仕事は、チームには副キャプテンがいないので、そういう立ち位置でありつつ、寮生活の規律とか、チーム内でコミュニケーションをしっかり取ってまとめていく役割でした」
原監督「もっといけるんじゃない?」
青学大の寮則は厳しく、選手が門限を破るなどはないが、掃除を忘れたり、寝坊する者はちょくちょく出てくる。そういう時、寮長の出番になるが、田村は怒るのが苦手で、強く言えないタイプだったという。
チームは、出雲と全日本を獲り、箱根を獲れば大学史上初の3冠を達成することができる。だが、田村は勝利した2つの駅伝のメンバーには絡めず、残すは3連覇もかかった箱根駅伝だけになった。
「原監督には当時、『もっといけるんじゃない?』と言われていたんですが、練習は良くてもなかなかレースで結果が出なくて……。箱根は自分のタイプや実力も考えると、狙えるところは8区と10区でした。青学の選手層は厚くて、その2区間を10人くらいが争っている感じでした」
2つの駅伝を走った主力選手は重要区間に配置されていた。16名のエントリ―メンバーに滑り込むには、青学大の箱根の最終選考レースとなる世田谷ハーフで結果を出すしかなかった。
練習でメリハリを付けられなかった
「世田谷ハーフで結果を出すことだけに集中していました。しっかりと準備をして、レースにピークをうまく合わせることができたと感じていました。でも、思うような結果(65分54秒:20位)を出せず、ガッカリでした。もう箱根駅伝を走ることは無理だなぁって、この時は流石に落ち込んでいました」
チーム内で12番となり、箱根は絶望的になった。この日に結果を出すために全てを懸けてきたのに、なぜ走れなかったのか。