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「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」“伝説の横綱”千代の富士の告白「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で“狼”と呼ばれた?

posted2023/02/28 17:01

 
「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」“伝説の横綱”千代の富士の告白「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で“狼”と呼ばれた?<Number Web> photograph by Getty Images

昨年ツイッターで拡散された2枚のうちの1つ。1983年の九州場所(11月場所)での千代の富士

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近藤正高

近藤正高Masataka Kondo

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Getty Images

令和になっても、人気が衰えない“伝説の横綱”千代の富士。2016年7月に61歳で亡くなった昭和最後の大横綱は5冊の著書を残していた。自身が語った言葉から、千代の富士の波乱万丈の人生を振り返る。【全3回の1回目/#2#3へ】

◆◆◆

「カッコイイ…なんて名前の力士ですかね?」

 ファッションモデルとして活躍する秋元梢が昨年4月、Twitterで、あるユーザーが一人の力士の画像とともに《カッコイイと思って思わず保存したけど、なんて言う名前の力士なんですかね?/無知ですみません》とツイートしたのに対し、《うちの父です/ありがとうございます》とリプライして話題を呼んだ。

 秋元の父は、2016年に61歳で亡くなった第58代横綱・千代の富士貢(本名・秋元貢)である。1981年からほぼ10年にわたり横綱に在位した千代の富士は、1988年に戦後では最多となる53連勝を記録、1989年には通算965勝をあげて歴代最多勝記録を更新したのを機に、角界で初めて国民栄誉賞を受賞し、さらに翌年には前人未踏の1000勝に到達する(その後引退までに1045に伸ばす)。幕内優勝は大鵬の最多記録(当時)には一歩及ばなかったが31回を数えた。いずれの記録ものちに白鵬らに抜かれたとはいえ、それでも千代の富士が相撲史に燦然と輝く大横綱であることに変わりはない。

 千代の富士が活躍したのは昭和から平成初めであり、現役引退からすでに30年以上が経つ。ツイートしたユーザーはおそらく若い世代なのだろう。精悍な顔立ち、力士らしからぬ筋肉質の肉体は、たしかにいま見ても「カッコイイ」。

現役引退わずか“6日後”に自伝本を出していた

 その千代の富士は、筆者が確認したかぎり、生涯に5冊の著書を出している。年寄名跡である「九重貢」名義で最後に出した2011年刊行の『綱の力』(ベースボール・マガジン社)を除けば、いずれも現役引退の前後に出たものだ。

 このうち最初の著書で、NHKの元アナウンサー・向坂松彦との共著となる『私はかく闘った 横綱 千代の富士』(日本放送出版協会=現・NHK出版刊)は、奥付に1991年5月20日発行とある。千代の富士が引退を表明したのはその6日前の5月14日だが、向坂によるまえがきに《平成三年五月一二日、千代の富士は、三二回目の優勝を目指して、夏場所初日の土俵に上がる》とあるように、全編を通して彼がまだ現役を続けているものとして書かれている。

 引退後にはスポーツ紙や週刊誌に自伝を連載し、それぞれ『負けてたまるか』(東京新聞出版局および北海道新聞社、1991年11月刊)、『ウルフと呼ばれた男』(読売新聞社、1993年4月刊)と題して単行本化された。なお、著者名は前者では引退直後に襲った年寄名跡「陣幕貢」を用いたのに対し、後者は1992年4月に元横綱・北の富士の九重親方から部屋を継承したあとの刊行のため、「九重貢」となっている。さらにこの間1992年2月には、手記とあわせ写真をふんだんに掲載した『不撓不屈(ふとうふくつ)』という大型本も日之出出版より刊行された。この記事ではこれらを参照しながら、千代の富士の人生を振り返ってみたい。

【次ページ】 「まるで飢えた狼のようだ」

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