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「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」“伝説の横綱”千代の富士の告白「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で“狼”と呼ばれた?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byGetty Images
posted2023/02/28 17:01
昨年ツイッターで拡散された2枚のうちの1つ。1983年の九州場所(11月場所)での千代の富士
「まるで飢えた狼のようだ」
先に挙げた自伝の1冊が『ウルフと呼ばれた男』と題されたとおり、ウルフは千代の富士の代名詞であった。名づけ親は、九重部屋の先輩で、のちには師匠となる第52代横綱・北の富士である。時期的には、入門2年目の1971年(当時16歳)、11月の九州場所を足のけがで全休し、そのけがが治り、だんだん相撲が面白くなっていたころだという(『綱の力』)。
北の富士は当時まだ現役の横綱で、千代の富士は稽古をつけてもらっても、いとも簡単に転がされてばかりだった。それでもなお意地になって、目をむき、まだ髷の結えない伸びかけの髪を振り乱して向かってくる彼を、北の富士は「まるで飢えた狼のようだ」となぞらえたのである。そのころの写真を見ると、ざんばら髪に鋭い目つきをしており、たしかに狼のようだ。
ただ、『私はかく闘った』収録のインタビューでは、また違った命名の経緯が語られている。時期はちょんまげを結う前と変わりはないが、稽古中ではなく、博多(ということは九州場所中か)でアラのチャンコをつくったときのことだとある。アラは大きな魚なので普通の包丁ではなかなか切れない。そこでナタみたいなものを使っていたら、北の富士が「おっ、狼みたいだな」と言ったらしい。
「正直に言うと嫌で嫌でたまらなかった」
狼と呼ばれ出したときの当人の気持ちも、本によって記述が違う。『ウルフと呼ばれた男』では、《そんなに嫌ではなかった。耳をピンと立て、きりっとしまった胴、精悍な感じがあった。その狼がいつの間にかウルフという呼び名になったが、ウルフのほうがさらに気に入った》とある。
だが、『不撓不屈』では、《初めはどうもこの仇名が気に入らなかった。正直に言うと嫌で嫌でたまらなかった。ときには横綱[引用者注:北の富士]に、/「おい千代の富士、ちょっと窓開けて吠えてみろ」/などとからかわれる。“狼”なんて、なにか悪者みたいなイメージだ。そんなに悪漢みたいな顔になったのかなと鏡を見て悩んだりもした》と、まったく正反対の心情が吐露されている。細かい書きぶりからも、むしろこちらが本心だったのではないかと思わせる。
『不撓不屈』によれば「ウルフ」の命名も北の富士で、番付が上がるにしたがいそう変わったという。《こっちのほうはなんとなく気に入った。少なくとも“狼”よりはいい》とあるから、よっぽど狼と呼ばれるのは嫌だったのだろう。
「相撲は好きじゃない」スカウトを断っていた
千代の富士が九重部屋に入門したのは1970年、中学3年のときである。津軽海峡に面する北海道松前郡福島町に生まれ育った千代の富士は、少年時代からスポーツ万能だったが、陸上競技でオリンピック出場を夢見ており、相撲にはほとんど関心がなかった。そんな少年を、地元の関係者からの推薦を受け、当地出身の元横綱・千代の山の九重親方がスカウトしにやって来た。