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「おい千代の富士、ちょっと吠えてみろ」“伝説の横綱”千代の富士の告白「正直、嫌で嫌でたまらなかった…」なぜ16歳で“狼”と呼ばれた?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byGetty Images
posted2023/02/28 17:01
昨年ツイッターで拡散された2枚のうちの1つ。1983年の九州場所(11月場所)での千代の富士
本人は最初は「相撲は好きじゃない」と断っていたが、親方の「飛行機に乗せてやる」の一言で心が動く。飛行機などのプラモデルづくりに夢中になっていただけに、その本物に乗せてもらえると聞いて胸が躍った。漁師だった父も反対していたものの、親方から「中学を卒業するまで東京で私に預けてくれませんか。それで見込みがなければあきらめます。見込みがあればいっぺん帰して、改めてお願いに来ます」と説得され、ついに折れた。
こうして憧れの飛行機で上京し、新弟子検査に合格してその年の秋場所で本名の「秋元」で初土俵を踏む。四股名はこのあと「大秋元」を経て、翌1971年の初場所に際し、九重親方が「千代の富士」とつけてくれた。親方の現役時代の四股名である千代の山と、前出の横綱・北の富士からそれぞれ名前を取ったのである(ただ、自伝ではどれも触れられていないが、「富」の字は当初は頭に点のない「冨」を用い、1975年の初場所より改めた)。
親方の涙「やっと相撲取りになったな」
最高の四股名をつけてもらったものの、本人にはまだ力士になるつもりはなく、中学を卒業したら帰郷して地元の高校で陸上をやりたいとひそかに思っていた。卒業が翌月に迫ると、意を決して親方に、約束どおり北海道に帰してほしいと伝える。すると親方はあわてて止め、おかみさんとともに説得にかかった。
それでも千代の富士は約束が違うと頑なになり、抵抗のためしばらくだんまりを決め込む。これに手を焼いた親方はついに両親に連絡をとり、地元の関係者たちとも話し合ってもらい、そのうえで後日、彼を呼んで実家の父親と電話で話してもらう。父から高校に行きたいのだろうと図星を突かれると、千代の富士は大きくうなずいていた。父を通じて彼の思いを理解した親方は、それなら東京の高校に行けばいいと言ってくれた。
『負けてたまるか』で彼は、このときの親方を振り返り、《一度、北海道へ帰してしまったら再び相撲界に戻ってこない、と必死だったのだろう。今、思えば「引き留めてもらって」本当にいくら感謝しても、亡き先代九重親方(元横綱千代の山)には頭が上がらない》と書いている。
こうして千代の富士は、明治大学付属中野高校に入れてもらうのだが、相撲との両立がままならず、けっきょく中退する。相撲1本で行かせてほしいと申し出たところ、親方は涙を流して「やっと相撲取りになったな。これからだぞ」と喜んでくれたという(『綱の力』)。
現代の感覚からすれば、九重親方は一見本人の意思を尊重したようでいて、何としてでも力士にしようと、あの手この手で囲い込んだようにも思える。1972年に日本相撲協会は、前年の文部省(現・文部科学省)の通達を受け、「中学生は力士として採用しない」と決めたとはいえ、たとえもう少し年上の少年が相手でも、いま同じようなやり方で慰留したら、問題になりそうである。もちろん、親方が引き留めたのは、それだけ千代の富士が将来を嘱望されていたということであるが。
<続く>
千代の富士 貢(ちよのふじ・みつぐ)
1955年6月1日、北海道福島町生まれ。本名・秋元貢。1970年9月初土俵。81年7月に第58代横綱に昇進。優勝回数31回を誇り、88年に戦後最多(当時)となる53連勝を記録。89年に国民栄誉賞を受賞。91年夏場所で引退し、九重親方として多くの関取を育てる。2016年7月31日没
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