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「ものすごい罵声とブーイング」若き武藤敬司がアメリカで“大ヒール”になった夜…「日本人=姑息なヒール」ステレオタイプはこうして壊れた
posted2023/02/17 17:02
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
AFLO
長きにわたりプロレスファンを熱狂させた“プロレスリング・マスター”武藤敬司が、2月21日東京ドームでの内藤哲也との一戦で、ついに38年間の現役生活に終止符を打つ。
’90年代に蝶野正洋、橋本真也とともに闘魂三銃士として新日本プロレスの人気を牽引。大会場を次々と満員にする抜群の人気を誇り、’95年10月9日の「新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争」では6万7000人(主催者発表)を動員し、当時の東京ドーム観客動員新記録を樹立。そのメインで高田延彦を足4の字固めで破った一戦は、今も伝説の一戦として語り草となっている。
そんな“平成プロレス”のスーパースターである武藤だが、日本でトップに立つ前からアメリカではすでにメインイベンターの地位を確立していた。’85年にデビューから1年で海外武者修行に出発すると、各地でチャンピオンベルトを獲得。’89年にはアメリカのメジャー団体WCWで日本人として初めてレギュラー参戦し、時のNWA世界ヘビー級王者リック・フレアーやスティングと抗争を展開。毎週、アメリカのテレビのプライムタイムに登場するようになる。野茂英雄がロサンゼルス・ドジャースに入団するのは1995年のこと。武藤はその6年前からプロレス界の“メジャーリーガー”だったのだ。
武藤自身はこう語る。
「俺は新日本でデビューしたけど、本格的にプロレスに目覚めたのは最初のアメリカ遠征。フロリダ州タンパに1年弱行った時に、俺というレスラーは形成されたんだよ」
では、“天才レスラー”武藤敬司はどのようにして形成されたのか。引退試合を前に本人の言葉とともにあらためて振り返ってみよう。
「自由で楽しかった」フロリダ武者修行
武藤敬司は’84年4月に21歳で新日本プロレスに入門。188センチの長身と端正なルックス、さらに柔道の全日本強化選手というバックグラウンドを兼ね揃えており、新人時代から将来を嘱望される逸材だった。
そして’84年10月に同期の蝶野相手に白星デビューを飾ると、1年後の’85年11月には早くもアメリカ・フロリダ州への長期遠征に出発。プロレス界では伝統的に海外武者修行は「若手をメインイベンターに変身させる装置」という意味合いがあるが、当時新日本は長州力ら維新軍団をはじめとした選手大量離脱に見舞われたため新たなスター作りが急務であり、武藤にその白羽の矢が立ったのだ。