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「ムタと武藤を同時に撮りたい」カメラマンの無茶ぶりにグレート・ムタはどう答えた? 34年の歴史に幕、“悪の化身”が魅力的だった理由
posted2023/01/25 17:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
34年前、グレート・ムタをこんなにも長く見続けることになろうとは思っていなかった。
1月22日、そんなムタがついに横浜アリーナで引退した。黒地に大きな白文字で「Bye-Bye」と書かれたマスク姿で登場し、最後の勝ち名乗りをあげると、観衆に見守られながらリングから姿を消していった。
「ムタと武藤を同時に撮りたいんだけど…」
1989年4月、アメリカのジム・クロケット・ジュニアのプロモーションNWA(WCW)のリングで誕生したムタは、ご存知のように武藤敬司がペイントした“悪の化身”だ。1990年9月、日本に逆輸入された形のムタは、新日本プロレスのリングでも独自のキャラクターを確立して人気を博した。
新日本では馳浩、橋本真也、藤波辰爾、長州力、ハルク・ホーガン、アントニオ猪木、小川直也らと戦った。ムタの特異なスタイルと彼らの衝突は、横浜アリーナや東京ドームといった大会場に客を呼べるカードでもあった。
1993年の「1.4」。同期の蝶野正洋との東京ドーム決戦では、長い花道で助走をとったラリアットが印象的だった。同時に、ペイントの剥げた顔は武藤そのものでもあった。
それでも、武藤は一貫して「自分はムタの代理人である」というストーリーを続けた。
ある日、筆者はムタの代理人に「ムタと武藤を同時に撮りたいんだけど」と無茶な要求をしたことがある。代理人は怪訝な顔をしたが、しばらくすると半面ムタが「これでどうだ」と言わんばかりに私の前に姿を現した。
その場での単なる思い付きだが、写真はいい感じに仕上がったと思っている。あまり記憶は定かではないが、その中の1枚が、ポスターかどこかの広告に使用されたのではなかったか。
ムタのパクリである大仁田厚のグレート・ニタとも「ノーロープ有刺鉄線バリケードマット時限装置付き電流地雷爆破ダブルヘルデスマッチ」という長すぎる名前の試合形式で、神宮球場で対戦した。
横浜アリーナの天井から降りてきたこともあれば、檻から出てきたこともある。リングの下で垂れ幕をめくって凶器を探す姿は、それだけでもファンを歓喜させた。