プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
「ムタと武藤を同時に撮りたい」カメラマンの無茶ぶりにグレート・ムタはどう答えた? 34年の歴史に幕、“悪の化身”が魅力的だった理由
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/01/25 17:00
1991年8月、筆者のカメラにポーズをとる若き日のグレート・ムタ。2023年1月22日、34年にわたるムタとしてのキャリアに終止符を打った
“父親”のカブキ家で起きた「隠し子騒動」
ムタは単なる粗暴な悪党ではなかった。知的な部分もあって、その仕草、ひとつひとつの動きによって、見るものに愛着や親しみさえ感じさせていた。
ペイントもそうだが、赤や緑の毒霧も「ザ・グレート・カブキの息子」という設定だから当然のようにうまく吹けた。撮影中、筆者はその霧に“甘い匂い”を感じたこともあった。
以前にも触れたことがあるが、カブキからムタ出現時のエピソードを苦笑交じりに聞いたことがある。アメリカ時代にカブキが家に帰ると、大騒動になっていた。
「パパ、隠し子がいたの? さっきテレビで言っていたよ」
カブキは「いや、それは……」と言いかけたが、家族のあまりに冷たい視線に言葉を失ってしまったという。今では笑い話だが、自らムタに「My son」と呼び掛け、実況のアナウンサーまで「カブキの息子が現れました」とくれば、何も知らずにテレビを見ていた家族が「ええっ!?」と驚いてしまうのは当然かもしれない。
「作ってないですよ、本当の話。あれには参ったね(笑)」
そんなカブキが1993年6月に日本で行ったムタとの“親子対決”は大流血の一戦に。あまりにも凄惨すぎたため、テレビ朝日は予定していた放送を見送ることになった。
「カメラマン泣かせ」だった毒霧噴射
1990年代、ムタというキャラクターは重宝された。もうすでに猪木はたまにしかリングに上がらなくなっていたから、ドームなどのビッグマッチにはムタの登場が目立った。
場所が東京ではなくても、ムタの出る試合はリングサイドのカメラマンの人数も多かったように思う。
毒霧のシーンはムタの試合のハイライトで、それが見えたか見えないかはカメラマンにとって大きなポイントでもあった。20センチくらいの至近距離での毒霧噴射はよく見えないため、カメラマン泣かせだった。
フィルムの時代は「見えた」とか「見えないよ」とかリングサイドで言葉が飛び交っていた。ライティングにもよるが、比較的赤い毒霧の方が見えやすく、緑は見えにくいことが多かった。
ただ、流血や赤い毒霧の後に吹きかけた緑の毒霧は、相手の顔面を異様な色合いに染めて、ムタのおどろおどろしさが敵にまで乗り移ったように見えた。