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パンサラッサが呼び起こした超個性派ツインターボの鮮やかな記憶…“劇場型”大逃げ馬がファンを唖然とさせた「伝説のオールカマー」 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/03/26 11:02

パンサラッサが呼び起こした超個性派ツインターボの鮮やかな記憶…“劇場型”大逃げ馬がファンを唖然とさせた「伝説のオールカマー」<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

1993年のオールカマーで、舌を出しながら第4コーナーを爆走するツインターボ。後続を完全に置き去りにする衝撃的な大逃げだった

 後続との差がターフビジョンに映し出されるたびにスタンドが沸いた。大きなリードを保ったまま直線に入ったツインターボは、菊花賞と天皇賞・春を勝っていたライスシャワー、桜花賞馬シスタートウショウ、女傑イクノディクタス、重賞を4勝していたムービースターといった強豪の追い上げなどどこ吹く風といった逃走劇で、2着を5馬身突き放した。

 結局、これが中央での最後の勝利となった。

 3番人気に支持された次走の天皇賞・秋では直線で失速し、しんがりの17着。

 翌1994年の有馬記念では田中勝春を背に逃げたが4コーナーで後続に呑み込まれ、つとに知られる「ツインターボの先頭はここで終わり」という実況がなされた。

 旧8歳になった1995年に地方の上山競馬場に移籍。故障の影響などでそこでは1勝しかできず、翌1996年11月から宮城県の斎藤牧場で種牡馬となった。1997年、7頭に種付けしたが、1998年1月15日に心臓麻痺で死亡。5頭の初年度産駒を残しただけにとどまった。

中館との出会いが「ツインターボ劇場」を生んだ

 ツインターボが、派手な大逃げでターフを「劇場」とし、多くのファンを熱くさせたのは、「逃げの名手」中舘の力によるところが大きい。福島をはじめとする小回りの競馬場で逃げ・先行馬をコントロールする技術にかけては、まさに天下一品だった。

 中舘は、1990年代のなかごろ、ツインターボの黒岩オーナーのつてを頼り、アメリカのニール・ドライスデール厩舎を訪ね、年末から年始にかけて、西海岸のサンタアニタパーク競馬場で騎乗するようになった。そこで彼が勝利をおさめる現場に、筆者は立ち会うことができた。福島同様、小回りで平坦なアメリカの競馬場では、馬にパッと軽く乗ってテンから飛ばし、手応えのなくなった馬をゴールまで持たせる彼の技術がそのまま通用し、結果を出したのだ。

 そんな中舘を背に、見ている私たちが不安になるほど後ろを離して逃げ、ハラハラドキドキさせてから、直線でもさらに伸びる強さで唖然とさせた。勝っても負けても私たちの気持ちを大きく揺さぶり、記憶に深く刻み込まれる、忘れられない馬となった。

 中舘のように、「逃げの○○」という色がつくことを厭わない騎手はいなくなってしまったが、軽い高速馬場の日本では、序盤から飛ばしてそのまま流れ込むレースが「勝ちパターン」になりやすいことは確かだ。

「無謀」を「圧巻」に転換させるツインターボばりの逃走劇を、遠くドバイの地で、パンサラッサが見せてくれることに期待したい。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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