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「直球がこめかみに直撃、ヘルメットが真っ二つ」「試合後の1、2カ月、ボロボロでした」作新学院・江川卓17歳、対戦相手に刻んだ“凄まじい爪痕”
text by
日比野恭三Kyozo Hibino
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2022/03/31 06:01
1973年センバツの江川卓。当時17歳の「昭和の怪物」は甲子園を揺るがすピッチングを見せた
「タイミング合わすのに必死で、球種とかコースを絞ろうなんていう考えも及ばない。試合中はなんか、ぼーっとしてましたね」
4回2死、有田が三塁打を放ち、得点機を迎えた。しかし、北陽の心はもう折られていたのかもしれない。適時打を待つこともなく、本盗を試み、むなしく失敗した。
まっすぐを当たった記憶も、見逃した記憶もない
19三振を喫しての完敗。藤田は4打数4三振。野球人生初の屈辱を味わった。
「まっすぐには当たった記憶はありません。見逃した記憶もありません」
大阪の四番は死に物狂いで打ちにいき、そして赤子のようにひねられたのだ。勝った江川は淡々と敗者の列に頭を下げた。
2回戦の小倉南には7回まで投げて1安打10奪三振。準々決勝の今治西には9回を投げてやはり1安打の20奪三振。説明不要の実力を発揮する江川に導かれ、作新学院は広島商業と決勝進出を争うこととなった。
名将迫田穆成に率いられた当時の広商は、のちにプロで活躍する達川光男、江川に負けじと3試合連続完封のエース佃正樹など、実力者揃いだった。時系列は前後するが、同年夏、甲子園優勝を果たすチームである。
「作新に勝たずして優勝はないと、秋の中国大会が終わった時から江川対策が始まりました。対戦するとは限らないのに……」
そう語るのは、1番ショートの主将、金光興二だ。迫田の指示のもと、走者二、三塁からのダブルスチールを特訓した。
「三塁走者がわざと挟まれて、本塁に向かってインフィールド寄りに滑り込み、捕手を誘い出す。その間に大外から二塁走者がいっきにホームをつくという秘策でした」
小さいボールがグゥーっと大きくなって
この時点から、迫田に江川を打ち崩せるという発想はなかった。それが間違っていないことを選手たちが知るのは、開会式直後の北陽戦を客席から観戦した時のことだ。
江川の直球は金光の遠近感を狂わせた。
「小さいボールがグゥーっと大きくなって迫ってくるような感じ。想像以上でした」
広商は伝統的に対戦相手の情報にむやみに触れることをしなかった。開幕戦の視察は異例中の異例だったが、宿舎ではテレビもつけず、新聞も読まず、2回戦、準々決勝と話題をさらう江川をあえて無視し続けた。ついに直接対決が確定し、決戦前夜、宿舎としていた「みやこ旅館」の畳の上で迫田によるミーティングが開かれた。
現在、法政大学教授を務める金光がホワイトボードに書き込みながら再現する。
「戦略は、前半はウェイティングによって球数を費やさせることと、5回以降は機動力を使っていくことの2つ。そして戦術は『60分の1』だと言うんです」
ストライクゾーンにボールを並べると、横に6個、縦に10個の計60個が入る。迫田はまず上半分の30個を捨てろと言い、続いて下半分の内寄り15個を捨てろと言った。そして残る下半分の外寄り15個の中でも最も外角低めの1個分、そこだけは振ってもいい、ファウルにしろと指示を出したのだ。
選手14人全員の気を江川に向けろ
3番打者だった楠原基は、これとは別のミーティングを記憶している。