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「直球がこめかみに直撃、ヘルメットが真っ二つ」「試合後の1、2カ月、ボロボロでした」作新学院・江川卓17歳、対戦相手に刻んだ“凄まじい爪痕”
posted2022/03/31 06:01
text by
日比野恭三Kyozo Hibino
photograph by
Katsuro Okazawa/AFLO
1973年3月27日、第45回選抜高等学校野球大会が幕を開けた。入場行進曲『虹をわたって』を歌う“ヤングアイドル”天地真理が甲子園球場のスタンドに姿を見せ、30校417人の選手たちを見守った。
「江川に始まり、江川で終わる」
この大会は、始まる前からしばしばそう形容された。
情報網が現代ほどに発達していない44年前、江川卓の名はじわじわと全国に伝播した。ついにヴェールを脱ごうとする作新学院の背番号1は、まぎれもなく「センバツ最大の目玉商品」(日刊スポーツ)だった。
2年秋までの記録を整理しておこう。
公式戦26試合に登板(先発25試合)して、ノーヒットノーランが6度(うち2度は完全試合)。それとは別にコールド勝ちで参考記録となった無安打無得点試合が2つ。5本以上の安打を許したのは3試合だけ。204イニング1/3で自責点は10 。防御率0.44。奪三振は302を数えた。
江川の怪物性を骨の髄まで思い知らされていた
圧倒的剛腕はしかし、過去3度の甲子園行きのチャンスを逃し続けた。1年夏は救援が打たれ、2年夏はサヨナラスクイズを決められた。関東大会に駒を進めた1年秋は、初戦の5回に頭部死球を受けて降板。4回まで10奪三振の好投は報われなかった。
自軍の貧打もあり、全国の大舞台は近いようで遠かった。
センバツで国民的な注目を浴びるまで、江川の怪物性を骨の髄まで思い知らされていたのは、地元栃木の野球部員たちだ。
最初の完全試合は1年夏の県大会準々決勝、烏山高校との一戦だった。同年春の県ベスト4を8奪三振、103球で片づけた。
江川と同学年の棚橋誠一郎は6番サードで先発出場し、2三振を喫した。試合前からすでに「江川を打つ」が目標だった。
「中3の春、県の有力選手を集めて強化合宿があった。宇都宮駅まで行ったら小山地区から選ばれていた江川と遭遇したんです。『集合場所の陽北中学校ってどこですか?』って聞いてきてね。おれらもわかんないから、一緒にタクシーで行きましたよ」
静岡から小山中に転校してきたばかりの江川のことは知らなかった。だが、いざ練習が始まって、一瞬で忘れ得ぬ存在となる。
江川が投げたら、かすりもしない
「江川が投げたら、もう度肝。かすりもしない。小山にこんなヤツいたのか? って騒然としました。そこからですよね」
高校に入り、意識していた相手との公式戦での初対戦。完全試合の結末を知る由もなく、「打つ自信はあった」と棚橋は言う。