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高校サッカーPRESSBACK NUMBER
“消えた天才”市船史上最高のストライカーは、なぜ2年でジェフを戦力外になった?「Jリーガーがチヤホヤされる時代、誘惑も多かった」
text by
栗原正夫Masao Kurihara
photograph byKYODO
posted2022/01/28 12:30
1994年度の高校サッカー選手権で8得点を挙げ、大会得点王になった森崎嘉之。帝京との決勝戦ではハットトリックを達成し、市立船橋の初優勝に大きく貢献した
「よく『ケガでもしたの?』と聞かれましたが、ケガはまったくなかったです。天狗になることもなかったですし、簡単に言えばメンタルが弱かったんです。高校サッカーを見て育ってきて、小5のときに市船を知って。市船に入って冬の選手権で勝つのが夢でした。そこで結果が出て、やり切った感はありましたね。
高校時代の練習も厳しかったですが、うまく力を抜いていましたからね(苦笑)。だから、プロになって壁を感じたときに、途中で逃げちゃったんでしょう」
ジェフ市原に所属した2年間でリーグ戦の出場はなし。唯一、96年6月1日の市原臨海競技場でのナビスコカップ(現ルヴァンカップ)のグループステージ第1節の対アビスパ福岡戦の87分から途中出場したのみ。出場時間はロスタイムを含めて約4分間だった。
「当時の記憶? スローインのときに近くにボールボーイがいなかったのか、タッチラインを割ったボールを取りに行って。中西(永輔)さんに『寄こせ』と言われ、渡した記憶しかないですね」
Jリーガーがチヤホヤされる時代「誘惑も少なくなかった」
森崎にとっては環境的な難しさもあったのかもしれない。当時のジェフ市原ではディフェンスラインの年齢層が比較的高く、同期の鈴木や茶野は1年目から出場機会を得た。それに対し、前線にはルーファーやマスロバルといった外国人選手に加え(2年目の96年には元チェコ代表のハシェックも加入)、大卒ストライカーの新村泰彦や同じく高校サッカーで活躍した1学年上の城彰二らタレントが揃っており、ベンチ入りさえ簡単な状況ではなかった。
「同期の鈴木と茶野が(試合に)出ていて、『何でオレだけ……』って気持ちはありました。ただポジションの違いはあれ、2人は真面目で、茶野なんかは性格的にも先輩の懐に潜り込んで、プレーの相談をしたり可愛がられるところがありましたから。自分はそういうキャラじゃないし、誰かに相談するタイプでもなかった。高校までは常に先頭を走っていて、誰かを追いかけることもなかったですし、追う立場になって難しさがあったというか。
それに当時はJリーグができて、3、4年目で、Jリーガーってだけでチヤホヤされる時代でした。誘惑も少なくなかったですし、寮暮らしでしたが、六本木に遊びに行くのは日常茶飯事。あるときはビルを借り切って、Jリーガーと女の子の50人対50人でコンパをやったことも(笑)。そこに日本代表選手もいたりして、若かったし遊ばなきゃ損みたいな。でも、ぜんぶ言い訳ですよ。当時、いちばん仲良くしていたのが城くんで、彼は試合に出て活躍していましたからね」