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選手権4強の栄光、不祥事発覚を乗り越えて…創部100周年・徳島商サッカー部が“復刻ユニフォーム”で選手権のピッチに立った理由
posted2022/01/24 11:00
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph by
AFLO SPORT
創部100周年という節目の年に、第100回全国高校サッカー選手権大会への出場を果たした徳島商業高校サッカー部。「選手権出場40回」という数字は、全国的に見ても秋田商の46回に次ぐ記録である。
11年ぶりとなった選手権では、初戦でいきなりJリーグ内定者4人を擁する静岡学園と対戦。0-5と大敗を喫したが、伝統のオレンジ色のユニフォームをまとった選手たちは、最後までピッチで懸命にボールを追い続けた。
創部は1920年、最高位はベスト4
1909年の学校創立から遅れること3年、サッカー部は1920年に発足。初めて選手権に出場したのは1933年度の第16回大会。大会創設初期は全都道府県に出場枠がなかったこともあり、徳島県代表として初の選手権出場を果たしたのが徳島商だった。
選手権での最高位は1996年度大会(第75回)のベスト4。県勢として初めて国立のピッチを踏んだ。それ以降も、県勢初のインターハイ優勝(92年度)を成し遂げた徳島市立と並び、「2強時代」を築き上げた。選手権予選の決勝カードが過去13大会連続で「徳島商vs.徳島市立」となるなど、長らく県内のサッカー界をけん引。OBには黒部光昭、塩谷司といった日本代表選手も輩出している。
そんな伝統校である徳島商だが、100年の歴史があれば、当然沈んだ時期もある。
2010年に部員の起こした不祥事が発覚し、その年のインターハイは出場を辞退。同年度の選手権こそ出場を果たしたが、それ以降はスポーツ推薦枠が消滅するなどの学校方針の影響もあり、苦難の時代に突入していく。
不祥事によるイメージ低下の影響は大きく、県内・県外の優秀な選手から敬遠された。かつては60人を誇っていた部員数も大幅に減少し、それに比例するように全国大会出場はおろか、県内予選での上位進出すらも難しい時代があった。
さらには、徳島市立につづいて鳴門や徳島北といった県内の新勢力も台頭。以前は「徳島といえば、オレンジの徳島商」というイメージが定着していたが、徐々にその認識は失われていく。令和の時代を生きる選手たちは素直な思いを口にする。