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12年戦力外→野球引退後「三ノ宮の駅員」に転身、そして…元ソフトバンク近田怜王31歳「高卒の僕が京都大学で監督をやるなんて」 

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田尻耕太郎

田尻耕太郎Kotaro Tajiri

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posted2021/12/28 11:04

12年戦力外→野球引退後「三ノ宮の駅員」に転身、そして…元ソフトバンク近田怜王31歳「高卒の僕が京都大学で監督をやるなんて」<Number Web> photograph by Kotaro Tajiri

2012年に戦力外通告を受けた元ソフトバンク・近田怜王が、京都大学野球部監督に就任。その経緯を追った

“地元で就職”を考えるも…「あれは12月6日でした」

 プロ野球から退く決断をし、「子どもたちの指導者になりたいから教員免許を取得したい」と考えて、地元で就職して通信制大学に入る準備を整えていた。世話になる会社も決めた。あとは履歴書を送るだけ。その前日だった。

「あれは12月6日でした」

 9年前のその日付は今もはっきりと憶えている。

「報徳の永田(裕治)監督(現・日大三島監督)から電話がかかってきて、とにかく明日来いと。そこで、JR西日本野球部の総監督に就任したばかりの後藤(寿彦=現職は同野球部アドバイザー)さんから誘いがあることを知ったんです」

 後藤から、将来指導者になりたいのならば社会人野球を経験するのは必ずプラスになると説かれ、近田は入社を決意する。「選手はみんなプロ野球に進みたいと真剣に考えている。自分だけが違う方を向くのは失礼だ」と考え、「やるからにはNPB復帰」と覚悟を持った。当時のチームには、今年のパ・リーグ本塁打王になった“ラオウ”杉本裕太郎(現・オリックス)も在籍。2年間一緒にプレーをした。

野球選手から“鉄道マン”への転身

 社会人野球3年目。「もう戻れる力はない」と悟り、25歳で現役引退を決意。会社に残り、野球選手から鉄道マンへと転身を遂げたのだった。

「最初の3年間は神戸の三ノ宮駅で駅員。普通に駅のホームに立って、マイクを持って安全確認などをしていました。その後は車掌として京都~姫路間に乗車していました」

 野球の指導者になる夢を諦めたわけではなかったが、自分を拾ってくれた会社へ恩返しをしたい気持ちが強かった。じつはソフトバンクから戦力外通告を受けた直後からトライアウト受験を決めるまでの間は心にぽっかり穴が開いてしまい、何もせずに実家に1カ月ほど引きこもったことがあった。だから目の前に仕事があるという、その有難みも感じていた。

数奇な出会い。「一度京大を見てみないか」

 いつかそのタイミングが来れば、その時に考えればいい――。

 野球から離れて1年が経とうとした頃、突如として運命が動き出すことになる。

【次ページ】 「僕が今まで経験した野球と全然違いました。だけど…」

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