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野球のぼせもんBACK NUMBER
12年戦力外→野球引退後「三ノ宮の駅員」に転身、そして…元ソフトバンク近田怜王31歳「高卒の僕が京都大学で監督をやるなんて」
text by
田尻耕太郎Kotaro Tajiri
photograph byKotaro Tajiri
posted2021/12/28 11:04
2012年に戦力外通告を受けた元ソフトバンク・近田怜王が、京都大学野球部監督に就任。その経緯を追った
きっかけはホームページ開設。「いつか指導者になりたい」
近田が「野球指導者」の道を志したのは高校時代。きっかけは自作ホームページだった。
「報徳の野球部のチームメイト3人と『友達を作ろう』とホームページを開いたんです。当時はSNSなんて無かった。だから、3人で一つのホームページを作って、交流の場にしようと思ったんです」
やんちゃ盛りの高校生だ。目的はなんとなく想像できる。開設すると沢山のメッセージが届いた。
「ドキドキして読んでみると、僕宛てのメッセージは同じ高校生や中学生の野球部員ばかりだったんです(笑)」
それもそのはずだ。報徳学園の近田といえば、特に関西圏では名の知れ渡る存在。だから、内容も友達になってくださいではなく、野球に関するアドバイスを求めるものばかりだった。
「全部に目を通して、一つひとつに返事をしました。それが自分の中で楽しくて、人に教える大切さも感じるようになって。いつか指導者になりたい。それもプロではなくアマチュアで、と考えるようになりました」
戦力外の予兆「オマエこの感じ、多分くるぞ、って」
その後プロ野球選手になり、必死に目の前の自分と向き合っていた頃はその夢も一旦心の奥にしまった。しかし、期待されて飛び込んだプロの世界は厳しいものだった。入団4年目を迎えても一軍登板はゼロ。そんな中で夏を迎える頃、可愛がってくれていた先輩の甲藤啓介と食事に行った際に単刀直入にこう言われた。
「『オマエこの感じ、多分くるぞ』って。つまり、戦力外通告がくるという意味です。僕だって4年もいれば分かります。でも、言われて改めてハッとなりました。このまま戦力外になるのは勿体ない。もちろん、プロでどうやって生き残ろうかと必死に考えましたけど、そんな時に『指導者になりたい』という思いがふわっと浮かんできたんです」
近田がとった行動は、まさかの野手転向だった。7月に行われた三軍の韓国遠征で外野手が足りないチーム事情から出場し、打席では良い当たりを飛ばしていた。
「ピッチャーだけじゃなく、野手の知識を少しでも持っておいた方が指導者として今後に生きるのは間違いないから」
コーチや監督に相談し、最後は球団からも「高校時代に野手としても評価していた」とOKが出た。
結局、その年限りでクビになり、12球団合同トライアウトを受験したが獲得球団は現れなかった。「最後はやっぱりピッチャーとして勝負をしたい」と会場となったクリネックススタジアム宮城(現・楽天生命パーク)のマウンドに上がった。