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41年前のナベツネ「モスクワ五輪は中止すべきだ」 20億円を投資したテレ朝責任者の“恨み節”「俺は失脚した」
posted2021/04/24 11:03
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph by
Getty Images
モスクワ五輪ではテレビ朝日が、大会組織委員会(MOOC)と契約して日本国内での独占放送権を獲得していた。それは同局が日本教育テレビからテレビ朝日と改称(当時の正式社名は全国朝日放送)する前月、1977年3月のことだった(以下、改称前に関する記述も含めて同社名はテレビ朝日で統一する)。
その約半年前のモントリオール五輪では、NHKと民放連で組織されたJSNP(ジャパン・サテライト・ニュース・プール)が放送を担当し、成功を収めていた。それだけに、テレビ朝日単独での放送権獲得に、各局関係者は意表を突かれた。
もっとも、MOOCは2月には日本の主だった放送機関に宛てて、五輪放送権問題を協議したいとの招請状を送っていた。これを受けて、個別交渉でのぞむか、あるいは前例どおりNHK・民放の共同体制でのぞむかについて、民放連を中心に調整が進められる。そのなかにあって、テレビ朝日はMOOCと交渉すると即断した。
「テレビ朝日がいくなら“報復手段”を講ずる」
当時の同局の社長・高野信は、招請状の届いた翌日の民放連理事会の席上、日本の放送制度の現状として、国家的な問題が生じるといつもNHKが代表する慣行があることに疑問を呈した上で、MOOCとの交渉を宣言する。同局はこの前年、ワイドショー『アフタヌーンショー』でモスクワからの衛星中継を実施していたことから、高野は「その際にMOOCの関係者から五輪放送について個別に協議したいという感触を得ており、NHK・民放共同でと望んでも先方で受け付けないかもしれない」と強気の構えであった(『テレビ朝日社史 ファミリー視聴の25年』全国朝日放送)。
現地に飛んで交渉にあたったのは、朝日新聞の政治記者出身で、このときテレビ朝日の常務取締役報道部長だった三浦甲子二(きねじ)である。三浦は出発前に、日本テレビの専務の訪問を受け、行くのはやめて放送体制を一本化することを考えてほしいと説得されたが、高野社長の主張と同様、旧来のNHK中心の慣行をひっくり返すにはよい機会であると反論、よければ日本テレビと一緒にやろうではないかと逆に持ちかけたという。だが、これに対し日本テレビ側は、どうしてもテレビ朝日が行くのであれば“報復手段”を講ずると応じた(『季刊中央公論・経営問題』1980年春季号)。