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【追悼 早実の名将・宮井勝成】
王貞治「初優勝と血染めのボール」
posted2020/08/15 09:00
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph by
Kyodo News
Number Webでは、その死を悼み、雑誌『Number』に掲載された記事をここに転載・再発表することにいたしました。
1957年の早実の優勝――当時の監督、主将、捕手、チームメイトらの取材によって浮かび上がった「投手・王」についての傑作記事です。(Sports Graphic Number 923号 王貞治「初優勝と血染めのボール」より)
人に転機があるとすれば、王貞治のそれは早実に入学したことにあった。さらにその3年間でも、いくつかの転機が巡った。今から63年前、1957年、早実が選抜初優勝を遂げた前後のことだ。
優勝監督となる宮井勝成が早実の指揮官になったのはその2年前、29歳の夏。就任直後、都大会でライバルの日大三に大敗して、OB会でつるし上げられた。
「そこで『来年、王という投手が入ってくるので良くなると思います』と言いきっちゃったんだ」
4月で91歳になる宮井は、笑って振り返る。
王に早実入学を勧めたのは、早実の先輩で当時毎日オリオンズの選手だった荒川博というのが定説。後に巨人で一本足打法を伝授し、世界のホームラン王に育て上げたその人だ。
「荒川さんは家が浅草で、散歩中に中学生だった王の練習を隅田公園で見て、すごい選手だったから、早実に進学しなさいと言ったんでしょ」
王の1学年上で優勝時の主将、堀江康亘もそう伝え聞いてきた。
だが、宮井によるとちょっと違う。
重いボール、変形したままの関節。
「人形町の靴屋さんが先に王を紹介してくれたんだ。そこの息子さんが野球部じゃないけど、早実にいてね。王という良いのがいるから、と夏の練習に連れてきた」
入学の確約はない。そして王は都立高を受験するも失敗して、早実に入学せざるを得なくなる。
新入部員は100人弱。レフト、ライトのライン沿いに並び、ボール拾いの日々。ラインの内側で練習させてもらえた1年生は王だけだった。入学してすぐの春季大会では投手として、因縁の日大三を完封した。
王とバッテリーを組んだ同学年の捕手・田村利宏は左手を見せながら言う。
「外国人のようにヒジの使い方が独特だった。ビューンという感じではなく、ズドンという球質の重いボールで、140kmぐらいは出ていた。(捕球の衝撃で)左手人差し指の付け根の関節が今でも変形したままなんだよ」