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【追悼 早実の名将・宮井勝成】
王貞治「初優勝と血染めのボール」
text by
清水岳志Takeshi Shimizu
photograph byKyodo News
posted2020/08/15 09:00
1957年の選抜大会で優勝した早稲田実業とそのエース王貞治。初めて優勝旗が箱根の山を越え、大規模なパレードで皆が祝福した。
先発した王は大荒れだった。
1年夏。主将の醍醐猛夫が3番、徳武定之が4番。背番号10の王は「5番レフト」で甲子園にデビューした。
開会式直後の新宮戦は、3年生エースの大井孝夫が完投し初戦突破。2回戦は好左腕の清沢忠彦を擁した岐阜商が相手。醍醐、徳武は大井先発を主張したが、宮井はチームの将来も考えた。
「大井では打たれると思う。大きく育てたいので王を先発させたい」
ところが王は初回無死から3者連続四球。この回は1失点で終えたが、3回まで10人の打者に6四球と大荒れだった。リリーフした大井も乱調で1対8で大敗した。
王と同学年の飯田輝年は「あの頃は守っていたレフトから見ても、コントロールがばらばらだった」と笑う。
王の制球力にメスを入れた野球博士。
王の制球力を根本的に直さなければ、チームの将来も何もない。
当時、総監督的な立場にいたのが宮井より20歳以上も年上の久保田高行だった。朝日新聞の記者のかたわら、午後には毎日のように練馬区武蔵関のグラウンドにやってくる。厳しい指導で、久保田が現れると空気が緊張感に包まれた。
「(高野連の)ルール委員でもあったから、規則にも詳しい野球博士。今でいうセーフティースクイズを早実では『第2スクイズ』といって、早くから実践していた」(堀江)
久保田が王にノーワインドアップ改造の転機を与え、これでコントロールが安定したのは有名な話だ。ノーワインドアップのヤンキース、ドン・ラーセン投手が'56年のワールドシリーズで完全試合を達成したことでこの投法はクローズアップされるが、久保田はその有効性をラーセンの完全試合以前から確信していたようだ。『ラーセンの真似をしたわけではない』と後に新聞に語っている。
そして、野球博士の知識が半年後、早実に歓喜をもたらすことになる。