“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
鎌田大地は「やっぱり掴めない」。
東山高時代の覚醒と葛藤、そして今。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2020/04/22 11:00
東山高校時代の鎌田大地。当時から抜群のテクニックで異質な存在感を放っていた。
「時間がかかるが、どうしてもほしい」
8月、鎌田の熱い思いが通じたのか、「彼が未だに進路が決まっていないことに驚いたし、獲得するチャンスだと思った」と牛島が鳥栖への練習参加の要請を出した。
しかし、練習参加させた上でクラブが下したジャッジは「NO」だった。当時の鳥栖は、豊富な運動量を基本としたチーム。鎌田のような前線で飄々として時間を作るような選手は明らかな「異物」だったのだ。
「フィットするのに時間がかかることは分かっていた。でも、どうしても僕は彼がほしかった。必要だと思った」(牛島)
牛島は食い下がった。9月に頼み込む形で大学との練習試合に鎌田を参加させても答えは変わらず、9月下旬には今度は永井隆幸強化部長を京都まで連れて行き、プレミアリーグWESTでのプレーぶりを観てもらった。
この試合、東山はまたも東福岡に大敗したが、鎌田にボールが入った時だけは状況が一変した。東福岡の選手に複数人で対応されながらも、それでも鎌田はパスを通し続け、一矢報いるゴールまでも奪ってみせた。
このプレーを観た永井に「OK」をもらい、11月にようやく鳥栖入りが決まったのだった。
巡り合わせにも恵まれた鳥栖時代。
2015年、鳥栖に入団以降の活躍を見れば、牛島の先見は正しかったことがわかる。
森下仁志(現・G大阪U-23監督)に見初められ、トップ下やボランチとして時間と空間を操り、フィニッシャーとしても存在感を発揮。ルーキーイヤーでリーグ21試合出場、3ゴールをマーク。
「開幕の時から『なぜ俺を使わないんだ』と思っていたんです。納得がいかなくて森下監督に直談判をして、1時間話し合ったりもした。こうして試合に出れて嬉しい」(鎌田)
こうした態度が生意気に映ってしまい、干されてしまう危険性もあったが、森下監督は彼のプレースタイルと強気な性格を高く評価。さらにエースの豊田もその才能に惚れ込み、アドバイスを送るなど、鎌田を育ててくれた。
プロ2年目はマッシモ・フィッカデンティ新監督にも「もっとゴール前に飛び出せば能力が生きる」と寵愛を受け、リーグ28試合出場で7得点をマーク。ついに牛島が思い描いていたセカンドストライカーとして覚醒すると、翌2017年6月にフランクフルトに4年契約の完全移籍が発表された。
宣言通り、念願の海外移籍を果たした鎌田だったが、ここでも特徴が見えにくいプレースタイルは仇となる。