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トルシエが語る中田、俊輔、小野。
そして世界の扉を開けた森島寛晃。 

text by

田村修一

田村修一Shuichi Tamura

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photograph byAFLO

posted2020/04/18 11:55

トルシエが語る中田、俊輔、小野。そして世界の扉を開けた森島寛晃。<Number Web> photograph by AFLO

2002年6月14日、日韓ワールドカップのチュニジア戦で森島寛晃が決めたゴールが変えた運命とは。

中田、中村、小野の3人の関係性は?

――当時は中田英寿、中村俊輔、小野伸二という3人の才能あふれた選手がいました。あなたにとって彼ら3人はどんな違いがありましたか?

「3人は補完しあっていた。ヒデ(中田)にはフィジカルの強さ、力強さがあった。またパーソナリティもあった。だが中でも目立ったのはフィジカルの強さだ。決して怪我をしないし、力強く、大きな動きを作り出すことができた。技術的にも確固としたベースがあるから容易にボールを失わないし、攻撃でも効果的な動きをすることができた。

 繰り返すが3人は補完的だった。それぞれのパーソナリティは異なっていたが、選手としてのクオリティは同じレベルにあった。プレーをよく理解して、そこから最善の判断を下し、高い技術力でそのアイディアを実現する。3つの基準を彼らは才能として付与されていた。

 もちろん人間的な個性は異なるし、プレーにおける役割も違っていた。俊輔には左サイドでプレーすることを私は要求した。ヒデには右サイドと中央のどちらでもプレーすることを求めた。伸二はどのポジションでもプレーができた。ワールドカップで彼は、(負傷でメンバーから)外れた俊輔に代わり左サイドでプレーした。つまり3人のなかでは伸二が最もポリバレントだった。

 同じレベルにある3人の選手が、ひとりは左でプレーし、もうひとりは右でプレーする。さらにもうひとりはどこでもプレーができる。そういう意味で彼らは補完的だった。

 3人はチームを象徴する選手でもあった。日本サッカーのポテンシャルを彼らが体現していたといえる」

小野は本来サイドの選手ではない。

――昨日、私はたまたま2つの試合を見返しました。ひとつは2001年秋の日本対イタリア戦(11月7日、埼玉スタジアムでの試合で、1-1の引き分け)です。改めて見ても凄い試合だったと思います。

「本当に素晴らしかった。戦術もアグレッシブさも申し分なかった」

――小野伸二が左サイドからゲームを作っていたのは見事でした。

「重要なのは、彼は本来サイドに求められる要件を満たしている選手ではないことだ」

――当時としては新しいコンセプトだったと思います。

【次ページ】 森島のゴールで日本は世界に認知された。

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