「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER
谷間の世代・初代主将、羽田憲司。
今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph byYuki Suenaga
posted2019/08/08 11:50
2001年ワールドユースに挑んだU-20日本代表で、背番号5のキャプテンだった羽田憲司。現在は鹿島でコーチを務める。
3年11カ月ぶりの公式戦出場。
足首は「腫れが引かなくて、歩くのも痛かった」が、痛みの原因は不明。検査と手術を繰り返しても一向によくなる気配がなかった。ジーコのつてをたどってブラジルへ渡り、ようやく現地のドクターによって原因が特定されたときには、最初の違和感から1年以上が経過していた。
一緒にワールドユースを戦った仲間が、アジア予選の死闘を経て、アテネ五輪を戦っていたころは、ほぼ丸2年を要したリハビリの真っただ中だった。
「長く休んでいる間にみんなが成長していくのを見ていたら、同年代なのに、すごく遠くへ行ってしまった感じがしました」
対照的に自分自身は、ボールを蹴るどころか、走ることもできず、「精神的に大変だった。意識的にサッカーから離れていたというか、先の見えない日々に病んでいました」。
ようやく、練習に復帰できたのは2004年のシーズン後半戦。翌2005年7月のJリーグ復帰戦は、ヤマザキナビスコカップ(現ルヴァンカップ)を除けば、実に3年11カ月ぶりの公式戦出場だった。
31歳での引退に未練はなくとも。
だが、ケガとの戦いは、これで終わったわけではなかった。痛みから完全に解放されることはなく、加えて、およそ4年のブランクは想像していた以上に大きかった。
「復帰してから、自分のプレースタイルが変わったというか、変わらざるをえない状況になったときに、『もう上は目指せない。A代表は無理だな』と思いました。そこからは、同世代の選手たちのこともライバルではなく、頑張れっていう気持ちで見ていました。もちろん、Jリーグで対戦したときには勝ちたいけど、誰かがA代表に選ばれても、うらやましいとか、そういう感情はなかったです」
結局、羽田は思うようなプレーができないまま、セレッソ大阪、神戸へと移籍した後、31歳でスパイクを脱いだ。将来を嘱望され、世代の先頭を走っていた頃を思えば、あまりに短い現役生活だった。
「僕の場合、引退を決断するのは簡単でした。復帰した後も、ずっと足の痛みを我慢しながら、毎日薬を飲んでいる状態でしたから。だから、未練はなかったです。逆に、この足でよくここまでやったなって思います」
ただ、と言って、羽田が続ける。
「不本意でしたけどね、自分のプロサッカー人生は」