「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER
谷間の世代・初代主将、羽田憲司。
今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph byYuki Suenaga
posted2019/08/08 11:50
2001年ワールドユースに挑んだU-20日本代表で、背番号5のキャプテンだった羽田憲司。現在は鹿島でコーチを務める。
経験値は他の世代よりもなかった。
とはいえ、同世代の選手のなかに、所属クラブでコンスタントに出場機会を得ていたのは数人程度。加えて国際経験という点でも、U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)はおろか、そのアジア予選を経験している選手すらほとんどいなかった。
「経験値としては、他の世代よりもなかったんじゃないかな。たぶん、それはみんな感じていたと思います。だから、海外遠征にすごくたくさん行きましたよね。今の時代なら、アントラーズでも育成年代はどのカテゴリーでも海外へ行くし、珍しくはないけれど、当時はそうではなかった。
僕らは経験がないから、厳しい環境を経験させるためにやってくれているんだな、と。当時もそう思っていましたが、自分が指導者になってみて、それをより強く感じます」
今でもずっと、自分のせいだと。
ところが、彼らは、自分たちが谷間などではないことを証明するはずだった舞台――2001年6月、アルゼンチンで行われたワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)で、グループリーグ敗退に終わる。
「自分のせいだって思いました。グループリーグを突破できなかったのは自分のせいだって。ずっと思っていたし、それは今でも思っています」
今もなお、羽田の心のなかに深く根を張り、生き続ける悔恨である。
ワールドユース開幕をおよそ1カ月半後に控えた2001年5月、羽田はJリーグでの試合中に腰椎横突起骨折のケガを負った。当初の診断結果は、全治1カ月から1カ月半。ワールドユース出場は、もはや絶望かと思われていた。
しかし、2週間の安静の後、リハビリを始めた羽田を、U-20代表監督の西村昭宏は「本番では戦力になると判断した。初戦が大事なので、グループリーグから使いたい」と、登録メンバーに加えることを決断。出発直前の国内キャンプにも参加せず合流する、異例の扱いだった。
当時のU-20代表の主戦システムは、3-4-2-1。フィリップ・トルシエが率いるA代表の影響もあり、最終ラインは「フラット3」が採用されていた。3人のDFの中央を務め、しかもキャプテンである羽田は、このチームに不可欠な存在だったのである。