「谷間の世代」と呼ばれて。BACK NUMBER
谷間の世代・初代主将、羽田憲司。
今も残る悔恨と鹿島コーチでの野心。
text by
浅田真樹Masaki Asada
photograph byYuki Suenaga
posted2019/08/08 11:50
2001年ワールドユースに挑んだU-20日本代表で、背番号5のキャプテンだった羽田憲司。現在は鹿島でコーチを務める。
3年後にはアテネ五輪がある。
「最後の試合では、自分たちが今までやってきたサッカーを出して、ああいう結果になったから余計に悔しかったし、複雑な気持ちでした。みんなも『なんでこれをもっと早くできなかったんだろう』って思いながらプレーしていたと思います。あれを最初からやれていれば、間違いなく決勝トーナメントにも行けただろうし……」
羽田は18年前の記憶をたどりながら、ゆっくりと言葉をつなぐ。
「そこらへんが、結局は経験のない谷間の世代だったのかなって。初戦はやっぱり、みんな緊張していましたよね。そこに経験のなさが出たというか、プレッシャーのかかる経験をしたことがないっていうのが出たんじゃないかと思います」
2年前の前回大会で準優勝という偉業を成し遂げた、小野伸二ら、いわゆる「黄金世代」との比較も手伝い、この結果が谷間の世代なるネガティブなイメージをさらに強く印象づけたのは間違いない。
「やっちまったと思いました」
それが羽田の本心だった。
敗戦の責任をひとりで背負い込んだ羽田は、しかし、キャプテンとして「このままでは終われない」とも考えていた。そこで羽田は、日本へ発つ前に選手だけをホテルのミーティングルームに集め、ひとりひとりが思っていることを言い合う時間を作った。
3年後にはアテネ五輪がある。その先にはA代表もある。このメンバーが全員オリンピックへ行けるわけじゃないけど、それぞれがクラブで活躍して、できるだけ多くオリンピックに出て、この借りを返そう。そんなことをそれぞれが口にした。
帰国してから足首痛に襲われた。
当然、羽田自身もそのつもりだった。
「アントラーズでレギュラーを取って、A代表に選ばれるんだ。自分ではそう思って、ギラギラしていたというか、若かったし、変な自信もありました」
だが、羽田の夢がかなえられることはなかった。というより、羽田はその後、満足にプレーすることさえできなくなる。
アルゼンチンから帰国して、およそ2カ月後の2001年8月。羽田はJリーグの試合を終えた翌週の練習中、ふいに足首に違和感を覚えた。
「その後も練習を続けていたんですけど、とうとう我慢できなくなって……」