巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER

「落合さんには絶対負けないから…」現役引退直前、巨人・原辰徳が悩んだ“37歳の孤独”…41歳落合博満へのライバル意識「ああ、どうしてだ!」

posted2024/03/31 11:05

 
「落合さんには絶対負けないから…」現役引退直前、巨人・原辰徳が悩んだ“37歳の孤独”…41歳落合博満へのライバル意識「ああ、どうしてだ!」<Number Web> photograph by KYODO

1995年10月1日、長嶋茂雄監督に現役引退を報告した巨人・原辰徳(当時37歳)

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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40歳での鮮烈なFA宣言、巨人へ電撃移籍した落合博満……1993年12月のことだった。
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第16回(前編・後編)、41歳落合博満との“4番争い”に敗れ、37歳原辰徳が現役引退を決意するまで。現役生活最後に原が感じた“孤独”とは?【連載第16回の前編/後編も公開中】

◆◆◆

長嶋監督の苦言「タツは立場が分かっていない」

「ああ、どうしてだ! なんでだ! もう辞めてやろうかと癇癪が出かけたんですよ。そのときにユニホームの胸のGIANTSの文字が目に入った。これを見たとき、小さいころからジャイアンツのユニホームを着てプレーするのが夢だったことがぱっと頭に浮かんでね。我に返ったんですよ。自分だって十五年やってきて巨人軍が自分を作ってくれたという感謝と恩があります。そういうジャイアンツに後ろ足で砂を引っかけることができるのかと……。そういう風に考えたらすごく楽になりましたね。それで、もういいと……。自分はあってないものだと……」(週刊読売1995年11月12日号)

 1995年5月30日ヤクルト戦、2点を追う9回裏一死満塁の一打逆転サヨナラのチャンスで、打席に向かおうとした原辰徳は代打を送られた。36歳の背番号8は、屈辱と怒りの中で、己の置かれた立場をついに受け入れたのだ。

 前年に落合博満がFA加入すると、内野のレギュラーポジションを失った。だが、日本シリーズで落合が負傷欠場すると代役4番を務め、チームは日本一の大団円でシーズンを終えた。1995年のキャンプで首脳陣には、原を一塁とレフトで併用する構想もあったというが、本人が一塁専任を強く希望。これに長嶋監督が、「タツ(原)は自分の立場がわかっていない。ポジションを選り好みしていて試合に出られるか」(週刊新潮1995年5月25日号)と苦言を呈したという報道もあった。

 オープン戦ではチームトップの3ホーマーを放ち、開幕前の激励会の壇上では、「レギュラーで出場できるかどうかわからないけれど、自分の仕事はわかってるし、今年はその自信もあります」(週刊文春1995年4月20日号)と新シーズンの目標に「本塁打30本」を掲げてみせた若大将。しかし、開幕後の原は序盤に正三塁手のジャック・ハウエルの負傷で数試合のスタメン出場はあったものの、シーズン第1号は、落合の欠場により「5番一塁」で先発出場した5月3日の阪神戦まで出なかった。あくまで落合やハウエルの控えという残酷な現実がそこにはあった。

「(落合さんには)絶対に負けないから…」

 背番号8はそのキャリアを通して、マスコミから常に「勝負弱い4番」のレッテルを貼られたが、実は1980年代のセ・リーグで最も本塁打を放ち、多くの打点を記録したのは、山本浩二(広島)や掛布雅之(阪神)ではなく、「274本塁打、767打点」の原だった。

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