巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER
「落合さんには絶対負けないから…」現役引退直前、巨人・原辰徳が悩んだ“37歳の孤独”…41歳落合博満へのライバル意識「ああ、どうしてだ!」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKYODO
posted2024/03/31 11:05
1995年10月1日、長嶋茂雄監督に現役引退を報告した巨人・原辰徳(当時37歳)
しかし、同じく80年代にロッテと中日でセ・パにまたがり「340本塁打、948打点」というひとり別次元の成績を叩き出したのが落合である。
80年代中盤、オレ流スラッガーの巨人へのトレード報道は毎年のストーブリーグの風物詩だった。王貞治が現役引退して間もない当時はまだチーム内外で「巨人の4番は日本の4番であるべし」という価値観も強く、落合待望論は裏を返せば原への物足りなさを意味していた。「週刊ベースボール」1984年9月17日号掲載の特集「王監督が狙う“巨人改造計画”の中身」では、原を外野にコンバートして、落合をトレード獲得へ。予想オーダーは「4番落合、7番原」と書かれている。この前年、原は打点王を獲得してチームをリーグ優勝に導いたにもかかわらずだ。いわば、5つ年上の三冠王男は、80年代の巨人を背負う原にとって強く意識する存在だった。
「落合さんがね、三冠王の看板をひっさげてロッテから中日に移ってきたときですが、あのころまだ元気だったシノさん(篠塚利夫)と話し合ったんですよ。ボクは絶対にホームランでは負けないから、シノさんも打率で頑張ってほしいってね。で、あの年は両方ともボクらが勝って……」(週刊読売1995年11月12日号)
1987年の原は、中日1年目・落合の28本塁打を上回る34本塁打を記録。「人が人を作る、というか、あの年はそんな感じだったですね」とオレ流から受けた刺激を認めているが、この7年後にふたりの野球人生は長嶋巨人を舞台に交差する。
「あのときサードへ行く気になれなかった」
思えば、原は過去の偉大なONだけでなく、常に同時代を生きる落合とも比較され続けてきたわけだ。もちろん、現役最後の1年となる1995年シーズンも変わらずである。41歳で堂々と4番を張る背番号6とは対照的に、背番号8は打率1割台と低迷。ホームランも6月7日の横浜戦で第3号を放って以降は途絶えていた。
切れかかった気持ちをなんとか繋ぎ止めようと、若手陣が早出の特打ちでグラウンドを使用するのを横目に、原はブルペンのマシンでひとりでボールを集め、機械をセットして、黙々と打ちこんだ。