巨人軍と落合博満の3年間BACK NUMBER
「原ほど可哀想な選手はいない」“落合vs原”現役引退の年、37歳原辰徳は何度も泣いた…41歳落合博満に負けた原「引退スピーチでの“名言”」
posted2024/03/31 11:06
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph by
Sankei Shimbun
あれから30年。巨人にとって落合博満がいた3年間とは何だったのか? 本連載でライター中溝康隆氏が明らかにしていく。連載第16回(前編・後編)、41歳落合博満との“4番争い”に敗れ、37歳原辰徳が現役引退するまで。引退スピーチで原が残した“名言”とは?【連載第16回の後編/前編へ】
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「もう少し遅く巨人に入っていたら…」
「原ほど可哀想な選手はいない。おそらく原がもう少し遅く巨人に入っていたら、その評価はまた全く違うものになっていたはずですよ」(週刊ベースボール1995年9月18日号)
原辰徳のプロ入り時の巨人監督である藤田元司は、“長嶋監督解任”と“王引退”の直後の1980年ドラフト会議で、4球団が競合した1位原の当たりクジを引き当てた。その瞬間、長嶋を追いやった男と冷たい視線に晒されていた藤田は、救世主を引き当てたヒーローとなり、同時に原辰徳の野球人生はON後の巨人軍を背負うことを宿命づけられる。CMでふりまくタツノリスマイルや優男のイメージとは裏腹に原には頑固な一面があった。王貞治は巨人監督時代に若き四番打者に幾度となく助言を送ったという。
「何度も技術面でのアドバイスはしたけど、原はかたくなに自分の型を変えようとはしなかった。それが原のバッティングに対するこだわりだったんじゃないかな。これまでコースか球種かのどっちかにヤマを張るバッターはずいぶん見てきたが、原はコースと球種の両方にヤマを張る。こんな打者はほかにいないんじゃないかなあ」(週刊読売1995年11月5日号)
エリート街道を歩んできた若大将は、「4番ということは特に意識しない。4番目のバッターのつもりでいつも打席に立つ」と口にしては「まるでお行儀のいいお嬢さん野球だ」なんてOBや評論家から非難されたが、原は原なりに自分のやり方で巨人の4番を守ろうとしたのだ。
原辰徳が泣いた「これだけのお客さんが…」
だが、その15年間に及んだ長い戦いも終わりを迎えようとしていた。