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野村克也が命名、F1セブンは「単なる思いつきですよ」阪神時代の腹心&選手が振り返る“アレ”「監督自らホームスチールの指導を…」「野村さんはキャッチコピーの名人」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byJIJI PRESS
posted2024/02/11 06:00
1999年から2001年まで指揮を執った野村克也。阪神監督時代、今なお虎党の間で語り継がれる「F1セブン」が誕生したのは2001年だった
「僕だけが実践していると思っていたテクニックや社会人時代に学んだことが全部書かれていたんです。たとえば、ランナー二塁の場面でのトリックプレー。わざと大きく離塁して、キャッチャーに二塁送球をさせた上で三塁に進むプレーなど、社会人時代に何度かやったプレーがすべて書かれていました。“あっ、コレは通用しないや”って思いましたね」
しかし、野村の「走塁への意識づけ」はこの時点ではまだ実を結ぶにはほど遠かった。1999年、2000年と連続最下位に沈むなか、腹心の松井は野村の変化を感じていた。
「監督2年目となる2000年のシーズン中盤から、野村さんの考え方が変わりました。エースや4番を育てるのには時間がかかる。でも、足の速い選手をそろえて戦うことは手っ取り早くできる。そういう野球の原点に立ち返ることにしたんです」
ノムさんが見ていたシドニー五輪
それは就任2年目のシーズン途中に訪れた「方針転換」だった。
きっかけは、この年の夏に行われたシドニーオリンピック。史上初めてプロアマ混合で臨んだ野球日本代表で、野村が注目したのはJR東日本・赤星、NTT東日本・沖原だった。松井が続ける。
「シドニー五輪の中継を見ながら、野村さんが赤星や沖原に注目していたことを覚えています。また、その年に私と監督で当時の大阪ドームに社会人の日本選手権大会を見に行きました。このとき注目したのが、当時デュプロに在籍していた藤本でした」
このとき、藤本は野村の前で3本のヒットを放ち、野村の勧めもあり、同年のドラフト7位で阪神入りを実現している。
2000年のドラフト4位が赤星、6位が沖原、7位が藤本。翌春に「F1セブン」入りする俊足選手が一気に3名も入団した。野村は「足」「走塁」を武器に、阪神のチームカラーを変えようとしたのだ。
そしてついに2001年、「F1セブン」は誕生するのだった。
<つづく>