近鉄を過ぎ去ったトルネードBACK NUMBER
野茂英雄の会見直前、近鉄は球団旗を外した…「メジャー挑戦」電撃発表の舞台裏 記者が明かす「野茂と近鉄の視点は、完全に違っていた」
posted2024/05/02 11:05
text by
喜瀬雅則Masanori Kise
photograph by
JIJI PRESS
1995年5月2日、野茂英雄がメジャー初登板を果たしてから29年が経つ。ポスティングシステムもない当時、プロ6年目に突入する野茂が1995年も日本でプレーすることは当然と目されていた。一体、近鉄のラストシーズンに何が起きていたのか。第3回に引き続き、近鉄時代の番記者が1994年12月からスタートした近鉄と野茂との「契約更改交渉」を振り返る――。【連載第4回/初回から読む】
キーとなった「複数年契約」
後に聞けば、野茂はその第2回交渉で、代理人交渉をまず要求。球団の同意も得ぬままに、代理人の団野村が登場したという。
当時、日本球界では「代理人交渉」は認められていなかった。だから「エージェント」という存在が世間に認識されるきっかけとなったともいえるだろう。
それから野茂は再び「複数年契約」を要求したとも伝えられた。
それが認められないと分かるや、今度は「メジャー行き」を主張。それでも交渉が平行線となれば、「任意引退」――。
これが、野茂と団野村が研究し尽くした、野球協約の“盲点”を突く交渉術だった。
日本球界への疑問。首脳陣との確執。やりたいことがやれない。自分が正しいと思うことを、認めてもらえない。そんな野茂の苦悩を、真正面から受け止め、タッグを組んで球団側との交渉に立ち会ったのが、団野村という「代理人」だった。
「任意引退」の意味
その団野村とともに、野茂はプロ野球選手の身分を規定している「統一契約書」を徹底的に調べ上げた。野球協約を熟読すれば、日本の「任意引退」は、元の球団の同意がなければ他球団への移籍はできないことが分かる。しかし、米国は日本の野球協約の適用外だった。
つまり、日本の「任意引退」は、米国では「フリーエージェント」と解釈され、日米間でその覚え書きも存在していた。日本の野球協約は“国内法”に過ぎないのだ。