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“2つの大学で箱根駅伝を目指した男”の告白「環境に悩んで競技を辞める人もいるのですが…」《吉田響選手の東海大→創価大への編入が話題》
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph byL)Nanae Suzuki、R)AFLO
posted2024/01/12 06:00
東海大→創価大に編入し5区に挑んだ吉田響(左)。過去には日体大→松蔭大で4年間箱根路を走った梶原有高さん(右)のようなケースも
もしあの時、梶原が日体大を辞めずにいたら――どうなっていたかは誰にも分からない。
だが、仮に練習スタイルに何とかアジャストできたとしても、選手層の厚い日体大で梶原の才能が埋もれていたことも十分に考えられた。はたして現在と同じような活躍を見せられていただろうか。
偶然が重なったとはいえ、自ら選択した道で梶原は箱根ランナーになった。
社会人になってからも、梶原はプレス工業、ひらまつ病院、コモディイイダと数チームを渡り歩いている。
大学卒業後に入社したプレス工業を退社した当時は「円満退社でなければ移籍できない」という実業団連盟の規則があり、すんなりと移籍が叶わなかった。そのため、青山学院大の購買部で働きながら同大でトレーニングをしていた時期もあった(※実業団の円満退社の規則は2020年に撤廃され、以前よりも移籍が盛んに行われている)。
ひらまつ病院を辞めたのは一度、現役引退を決意したからだった。
ただ、しばらく休息すると「また走りたい」という意欲が湧いた。コモディイイダの会沢陽之介監督に自らアプローチし、再び競技の道が開けた。そして、2023年は5000mと1万mの2種目で自己ベストをマーク。35歳になった今も、まだまだ進化を続けている。
18歳の決断が「絶対の正解」とは限らない
高校卒業後の進路を決めるのは、選手が17歳か18歳の時だ。
当然、その時の決断が絶対の正解とは限らない。通常であれば、一度大学に進んでからも、まだまだやり直しのきく年齢のはずだ。実際に一般学生の場合には、転学や転部、さらには仮面浪人をする事例は多々ある。
それを考えれば、梶原や吉田が示したように、アスリートにだってそういった選択は可能なのだ。むしろこれまでそういった例が少ないことの方が不思議なのかもしれない。
「人間関係とか環境に悩んで陸上競技を辞めてしまう人もいると思うんですけど、そういう理由で辞めてしまったらもったいない。辞めるぐらいなら環境を変えてやっていくのも1つの手だと思います」
様々なしがらみや規則に翻弄されながらも、自らの選択で道を切り開いてきた。だからこそ、梶原が口にした言葉には妙に説得力があった。