箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
“2つの大学で箱根駅伝を目指した男”の告白「環境に悩んで競技を辞める人もいるのですが…」《吉田響選手の東海大→創価大への編入が話題》
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph byL)Nanae Suzuki、R)AFLO
posted2024/01/12 06:00
東海大→創価大に編入し5区に挑んだ吉田響(左)。過去には日体大→松蔭大で4年間箱根路を走った梶原有高さん(右)のようなケースも
6月に日体大を辞めた梶原は、地元に戻りフリーターになった。
朝の6時から12時まではコンビニ、午後2時から6時まではファミレスとアルバイトを掛け持ちし、忙しなく働いた。
それでも、走ることは止めなかった。
「もう箱根駅伝には縁がないと思ったので、どこかに就職して市民ランナーでやっていこうと思っていました」
アルバイトの後や休みの日に、時間を作ってトレーニングを積んだ。
そんなある日のことだ。知らない番号から携帯電話に着信があった。当時、松蔭大のマネジャーをしていた瀧川大地氏からだった。余談だが、瀧川氏はのちに青山学院大、東海大などでコーチとしても活躍する。
厚木市の公園を走っていた梶原を見かけ、知人を伝って連絡してきたという。
「僕を中心にチームを作っていきたいとのことで『どうしても入ってほしい』と熱心に誘ってくれました」
箱根駅伝にいまだ出場したことはない大学だった。だが、その熱意に梶原の心は動かされた。そして、翌年に入学。梶原の新たな選択には両親も喜んでくれたという。
松蔭大に再入学→1年目から選抜チームで箱根路へ
自分で選んだ環境というのがやはり合っていたのだろう。梶原は1年時の予選会で、チームは19位ながら個人48位となり、関東学連選抜で箱根駅伝出場を果たした。
「高校の時はあまり強くなかったので、まさか1年生から選抜に選ばれて箱根駅伝を走るチャンスが巡ってくるとは思ってもいませんでした。選抜チームにはいろんな選手がいて、話を聞くのが面白かったです」
その晴れ舞台で梶原は7区を走り区間5位と好走。当時は選抜チームの順位も正式に認められており、チームも総合9位となりシード権を獲得した。復路だけの順位は3位という好成績だった。その時にチームメイトだったプロランナーの川内優輝(あいおいニッセイ同和損害保険)とは今も一緒に練習するなど交流が続いている。
結局、梶原は4年連続で箱根を走った。
箱根を走った反響は大きく、大学を辞めたことで一度は顔を見せにくくなっていた高校時代の指導者ともわだかまりが解け、再び連絡をとれるようになったという。