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“2つの大学で箱根駅伝を目指した男”の告白「環境に悩んで競技を辞める人もいるのですが…」《吉田響選手の東海大→創価大への編入が話題》
text by
和田悟志Satoshi Wada
photograph byL)Nanae Suzuki、R)AFLO
posted2024/01/12 06:00
東海大→創価大に編入し5区に挑んだ吉田響(左)。過去には日体大→松蔭大で4年間箱根路を走った梶原有高さん(右)のようなケースも
高校卒業後の進路として密かに憧れていたのは、地元に近く、佐藤悠基(現SGホールディングス)や伊達秀晃が在籍し、箱根で度々鮮烈なインパクトを残した東海大だった。しかし、全国高校駅伝に出場した実績はあったものの、梶原が東海大から誘われることはなかった。
「日体大以外の大学からも誘いはあったそうですが、先生が断っていたようです。おそらく先生が自分のことを考えたうえで、日体大を提案してくれたのだと思います」
近年では少なくなってきたものの、陸上界ではかつては本人の意志と関係なく、指導者の意向で進学先が決まることも少なくなかった。もちろんそれは進学先の環境などを指導者なりに考え、選手へのリスクを忌避する“親心”からの動きであることも事実で、一概にすべてが悪いわけではない。
梶原の場合は、それが日体大だった。もちろん指導者から薦められたとはいえ、最終的な決断を下したのは本人でもある。
選手と大学の環境には「相性」がある
だが、実際に進学してみると、その環境になかなか溶け込めなかった。自分が本当に行きたかった進学先ではなかったことも一因にあったのかもしれない。
「僕はある程度、自分の状態に合わせて練習の強度や内容などを変えていきたいタイプでした。でも、当時の日体大は練習がかなり綿密に決められてしまっていて、自分の思うように、伸び伸びとはできませんでした」
誤解のないように付け加えるのであれば、この練習環境自体が良い、悪いというわけではない。練習における「自主性の幅」をどこまで取るのかということに、普遍的な正解があるわけではないからだ。実際に日体大の環境で大成した選手も多いわけで、ただただ、梶原には合わなかっただけということだ。
とはいえ一度ネガティブになれば、何もかもが嫌になってしまうのも人の心理というものだ。
「寮の仕事や授業のストレスも結構ありましたし……早めに決断しました」
入学から2カ月後、梶原は日体大を去ることを決めた。
もちろん周囲からは反対や批判の声が多かった。親や高校の先生には相当怒られたという。スポーツ推薦という枠で入った身でもあり、親には多額の入学金を払ってもらっている。梶原もまた申し訳なさでいっぱいだった。それでも、大学に通い続けることの苦痛には代え難かった。