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「甲子園で優勝したかった」21歳山下舜平大に必要だった“3年前の絶望”…覚醒前夜の食事改革と長友トレ秘話「制服ズボン3、4枚ダメにした」
posted2023/08/18 17:06
text by
前田泰子Yasuko Maeda
photograph by
7044/AFLO
新型コロナウイルスの感染拡大の影響によって中止となった2020年の夏の甲子園。実は、あの頃に日本球界の未来を担う類いまれな逸材が花開いた。
福岡大大濠からドラフト1位でオリックス入りした山下舜平大。“お披露目の舞台”がなかったにもかかわらず、「世代ナンバーワン投手」としてその名は全国に知れ渡っていた。
同年6月下旬の週末、福岡大大濠のグラウンドには20名ものNPBスカウトが集まっていた。もちろん、189センチの大型右腕を見るためだ。
その前週に、その年初めての練習試合で自己最速となる153キロをマークしており、目利きたちにとっては、まさに「金の卵」。ところが、肝心のその日の登板は最初の打者を三振にとったところで脇腹に違和感を訴え、たった4球で緊急降板。山下の本領発揮はお預けとなったのだった。
「小さくまとまる投手になるな」
山下は高校入学時にすでに183センチと体格に恵まれていた。それを見た八木啓伸監督はそのスケール感を伸ばすため、高校では直球とカーブだけで勝負させることを決めた。学校の軟式野球部の投手だった中学時代はスライダーやチェンジアップも投げていたが、「小さくまとまる投手にはなってほしくない」と、投げていた変化球は封印しカーブだけを使うよう命じた。
入学時からすでに「大器の卵」だった山下だが、その殻を破るまでに少し時間がかかった。好素材がそろう福岡大大濠で1年秋からベンチ入りし、2年からはエースナンバーをもらっていた。しかし、下級生のころはまだ突き抜けた投球を見せることはできなかった。
2年までの最速は146キロ。体格には恵まれていたが制球が定まらず、四球を出して崩れて負ける場面が何度もあった。2年春の九州大会では準々決勝の大分戦で3番手として登板した山下は3点リードを守り切れず4失点でサヨナラ負け。ストレートは144キロをマークしたが、相手を圧倒する投球は見せられなかった。
転機になったのは2年秋の福岡大会。4回戦で西日本短大付に1-4で敗れたことだった。
「ストライクが入らなくて負けてしまう。勝てるピッチャーになりたいです」
目の色を変えた山下は八木監督に訴えた。「基本からやり直せ」と八木監督は山下に下半身の体作りを命じ、一日1000回の股割りとストレッチを課した。ブルペンに入るが、そこで一球も投げることなく股割りばかりの日々。「正直、面倒だった」と明かしたように、ストレッチばかりの日々に半信半疑ではあったが、手を抜くことなく毎日同じことを繰り返した。「体のバランスが悪く、体の使い方がうまくいっていなかった」と八木監督が課したトレーニングは山下の成長を加速させた。
体作りと同時に取り組んだのは、現在の山下の大きな武器となっているカーブの練習だった。それまでのカウントを取るための緩いカーブではなく、決め球になる落差のあるカーブ習得に励んだ。
「勝てるピッチャー」を目指し歩み始めた山下は、その秋から少しずつ殻を破り始める。