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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
箱根駅伝3年時に区間賞&優勝ゴール、東洋大主将・齋藤貴志はなぜ翌年“エントリー漏れ”となった?「我慢できなくなって、体育館で泣きました」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byAsami Enomoto(L),Nanae Suzuki(R)
posted2023/01/09 11:00
2012年、3年時に優勝のゴールテープを切った東洋大の齋藤貴志。だが、4年生キャプテンとして迎えた翌年の箱根は走れず…。本人に当時の話を聞いた
監督からは『やれることをやれ』と
メンバー発表直後は冷静でいられたと言うが、時間が経つにつれて悔しさがこみ上げてきた。齋藤は「主将だからひと言監督と話をした方が良いな」と思い、部員がいなくなった体育館に一人で戻った。そこで監督の顔を見ると、涙が止まらなくなった。
「もう我慢できなくなって、体育館で泣きました。一回感情を出して、めたくそに泣いて。監督からは『やれることをやれ』と、そんな言葉をもらったと思います」
思い出したのは、前回の交代劇だった。直前で調子を上げた自分が代わって箱根駅伝に出場する一方で、当日変更で走れなくなったのは当時4年生の川上遼平だった。仙台育英高時代の先輩で、箱根にかける思いの強さも知っていた。だが、川上は悔しい表情を見せず、三大駅伝初出場で緊張する自分を逆に励ましてくれた。さらに言えば、監督の酒井もまた4年生の時にメンバー変更で走れない悔しさを味わっていた。
釜石、柏原、川上、歴代の東洋大主将に共通していた教え
「その1秒をけずり出せ」のスローガンで知られるように、少しでも調子の良い者がいればその選手が選ばれるのが東洋大の伝統だ。そのことを思い出したとき、齋藤は本当の意味で吹っ切れたという。
「だから次の練習の時にはもう頭は切り替わっていたと思います。主将として、今の自分に何ができるのか。それを聞きたいと思って、3つ上で主将だった釜石(慶太)さんにまず電話しました。柏原さん、川上さんにも連絡を取りましたね。3人が共通して言ったのが、できることをやれと。走る選手が一番走りやすいように、パフォーマンスが上がるサポートを自分で考えてやるしかないんじゃないかって。その言葉が胸にしみました」
齋藤は他の落選した4年生たちと一緒に、練習前の落ち葉拾いを始めた。12月始めはまだ落ち葉が多く、少しでも選手がロードを走りやすくするためだった。後輩たちには「来年があるから少しでも練習をしてほしい」と伝えて、そこからは寮の掃除も箱根には出場しない4年生がすべて受け持ったという。
献身的な最上級生の姿を見て、意気に感じない後輩はいないだろう。
迎えた第89回箱根駅伝で、東洋大は前評判通りの強さを見せる。(続く)