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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
箱根駅伝3年時に区間賞&優勝ゴール、東洋大主将・齋藤貴志はなぜ翌年“エントリー漏れ”となった?「我慢できなくなって、体育館で泣きました」
text by
小堀隆司Takashi Kohori
photograph byAsami Enomoto(L),Nanae Suzuki(R)
posted2023/01/09 11:00
2012年、3年時に優勝のゴールテープを切った東洋大の齋藤貴志。だが、4年生キャプテンとして迎えた翌年の箱根は走れず…。本人に当時の話を聞いた
11月頃からみんなすごく調子が良くて…
「年間を通じて故障続きになってしまって……。別の年だったらそれでもメンバー入りする可能性はあったと思うんですけどね。その年は11月頃からみんなすごく調子が良くて、結果的に自分が漏れるかたちになりました」
そもそも齋藤が主将の座についたのはどのような経緯だったのだろう。
一学年上には強かった柏原世代がいて、一学年下には設楽兄弟(啓太、悠太)という次世代エースがいて、自分たちはいわゆる谷間の世代だったと話す。本来であれば新チームが始動すると同時に主将も監督から任命されるのだが、その年は決まるまでに時間がかかった。
「僕らの代に適任者がいなかったのかもしれませんけど、たしか酒井(俊幸)監督から言われたのは2月に入ってからでした。『お前、頼むな』って」
主将になって、最初に決めたのは新チームの目標だった。前年度は柏原を擁しながらも2冠に終わっていて、やるからには先輩たちを越えようと「大学駅伝3冠」が新たな目標になった。
齋藤が直面した度重なるケガ
チームが順調に強化を進めるなか、齋藤はしかし、度重なるケガに苦しめられる。3月に左膝を痛めると、今度は6月に踵を、そして9月には大腿部を疲労骨折した。まともに走れる期間がほとんどなく、精神的にもこの1年は苦しかったと振り返る。
「とくに夏前に踵をやったのが痛かったです。このままだと夏に乗り遅れて、駅伝シーズンに間に合わないと。(箱根駅伝に出場できなかった)1年、2年の時と同じパターンだなって。だから7月、8月と走り込んだんですけど、また9月にケガをして……。やっぱり無意識のところで、主将の自分が引っ張らなきゃという焦りがあったんだと思います。でも、やってしまったことはしょうがないので、出雲や全日本は他の選手に任せて、自分は箱根に向けて調整しようと腹をくくりました」
11月の頭にようやく練習を再開。そこからは目標を箱根一本に絞って走り込んだ。チームは出雲駅伝で2位、全日本大学駅伝も2位と悔しい結果に終わっていて、なおさら箱根だけは譲れないという思いは強かった。