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「まだ実感がないんです」藤波辰爾が語るアントニオ猪木の思い出と“新日本プロレス創成期”「馬場さんと猪木さんは兄弟のように…」 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/11/20 17:05

「まだ実感がないんです」藤波辰爾が語るアントニオ猪木の思い出と“新日本プロレス創成期”「馬場さんと猪木さんは兄弟のように…」<Number Web> photograph by Essei Hara

2022年7月29日、故・アントニオ猪木さんと藤波辰爾が最後に会った日。筆書きのサインを手に記念撮影を行った

 藤波は16歳という若さでプロレスの世界に身を投じた。日本プロレスで1971年5月にデビューしたが、ごく自然に猪木についていった。

「猪木さんに『来い』と言われたわけではない。それでも『どうしようか』と迷ったことはないですね。実質的なデビューは新日本の大田区体育館かな。新日本プロレスが1972年3月に旗揚げすると、浜田(広秋=リトル浜田=グラン浜田)とよく第1試合をやりました。関川哲夫(=ミスター・ポーゴ)もいて、浜田は同郷の関川の運転手で来ていたんです。ただ、柔道をやっていた浜田の方が器用で動きがよかった。僕は毎日、毎日、浜田とやっていました。30戦、40戦やったかな。まだ、体重は77、8キロでした」

半世紀前のハワイの記憶「馬場さんが大きな体で…」

 筆者もこの藤波と浜田の試合は一度だけ見ている。当時、藤波は横向きのドロップキックを放っていた。

「陸上のフィールドで走り幅跳び、三段跳びをやっていて、ジャンプ力はあった。でも、まだ自分の動きをコントロールできない頃でした。試合はヘッドロックなどの基本技が中心。今の選手がやるような、ひねりの効いたきれいなドロップキックではなかったなあ」

 本人はそう振り返るが、スピードのあるきれいなドロップキックだったと記憶している。このドロップキックで筆者は藤波辰巳というレスラーが気になり始めていた。

「猪木さんはブラジルで円盤投げや砲丸投げをやっていましたが、走るのが好きで、試合の後、夜中でも走っていました。ただ、球技はてんでダメですね。社員旅行で野球大会やるんですが、まあ……(笑)。でも泳ぎはうまかったですよ。体がやわらかくて、泳ぎ方がきれいでした」

 猪木は子供の頃、横浜市の鶴見の家の近くにあった岸谷プールで泳ぎを覚えたようだ。

「なぜか、馬場さんも泳ぎがうまいんですよ。あの馬場さんが、ハワイの海で大きな体で泳いでいる姿は印象的でしたね」と藤波は証言する。

「日本プロレスに入って半年でハワイに連れて行ってもらったんです。パスポートとブレザーも作ってもらって。ハワイではアラモアナの馬場さんのマンションにちゃんこを作りに行っていました。猪木さんは本土に行っていたのかなあ、別行動でした。いい時代だったなあ」

 約半世紀前、若き日の楽しい記憶を思い返しながら、藤波はにっこりと微笑んだ。

<#2、#3へ続く>

#2に続く
「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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