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「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」
posted2022/11/20 17:06
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
「あの頃は、猪木さんの『いいかてめえら!』という怒号が響いていました。レスラーだけじゃなくて、営業にも厳しかった。『切符売れてんのか!』って」
1973年春、坂口征二が日本プロレスから新日本プロレスにNETテレビ(テレビ朝日)とともに合流してきた。
それまで日本テレビからさまざまな制約を受けながらNETは日本プロレスを中継してきたが、1973年4月からは新日本プロレスを『ワールドプロレスリング』として放送することになった。これで新日本は一気に攻勢に立った。
猪木がテレビの中継者に乗り込み「この画を拾え」
アントニオ猪木の“ストロングスタイル”は時代をつかんでいった。坂口との黄金タッグ再結成の世界最強タッグ戦、「昭和巌流島」と呼ばれたストロング小林戦や大木金太郎戦は世間の注目を浴びた。
猪木の気迫がブラウン管から伝わってきた。
「どうテレビカメラに映っているか、猪木さんは常に意識していました。カメラの背景に空席ではなく、観客がちゃんと映るように、2階席の客をそこに移動させていました。それから『カメラワークが悪い』と怒るんです。『これじゃあ、選手の動きがわからない』と」
当時は今のように何台ものカメラの映像を保存できるシステムはなかった。中継車のスイッチャーの技量がそのまま画面に現れていた。
「固定のカメラが何台かあって、ハンディもあるわけでしょう。外に中継車が止まっていて、そこに猪木さんが入っていって『この画を拾え』って、指示するんです。テレビ局にしたら触られたくないでしょう(笑)。でも、猪木さんはそこまでやっていました」
金曜夜8時の『ワールドプロレスリング』は脚光を浴びた。プロレス黄金時代の名にふさわしく、日本テレビが同時刻に放送していた石原裕次郎の『太陽にほえろ!』でも当時のプロレスの勢いには勝てなかった。
「僕がジュニアで帰ってきて、選手が育っていって、タイガーマスク(佐山聡)も出てきて……。僕と長州(力)がやって、視聴率が20%に達して、25%を超えることもあった。20%を切ったら、猪木さんは機嫌悪かった。六本木のテレ朝の玄関に入ると、視聴率が張り出してあったんです。22%、23%って。僕はそれを見て、大きな顔して、胸を張って歩いていました(笑)」