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「まだ実感がないんです」藤波辰爾が語るアントニオ猪木の思い出と“新日本プロレス創成期”「馬場さんと猪木さんは兄弟のように…」 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/11/20 17:05

「まだ実感がないんです」藤波辰爾が語るアントニオ猪木の思い出と“新日本プロレス創成期”「馬場さんと猪木さんは兄弟のように…」<Number Web> photograph by Essei Hara

2022年7月29日、故・アントニオ猪木さんと藤波辰爾が最後に会った日。筆書きのサインを手に記念撮影を行った

「もちろん、こんな歳までプロレスをやるとは思っていなかった。馬場さんが還暦の赤いチャンチャンコを着ているのを見て、こんな歳まではやらないだろう、できないだろうと思った。いつの間にか、それをはるかに超えてしまった。僕自身、あっち痛い、こっち痛いですよ。ヘルニアが長いし、腰を手術しているし。でも、見られているからリングに立てる。本当はリングシューズはいて、トランクスはいてリングに立っていられる状態ではない。ファンには『本当に腰悪いんですか』とよく言われますよ(笑)。でもそれは、リングに上がるという使命のようなものを感じているからなんです」

「自宅の庭を更地に…」新日本プロレス黎明期の記憶

 現役時代の猪木は、黒いリングシューズに毎回新しい白いヒモを通していた。付き人の藤波なら、なぜそうしていたのかを知っているかと思って聞いてみた。

「一時期、黒のリングシューズに黒いヒモの時もありましたね。僕はその頃のイメージを踏襲して、黒に黒でやらせてもらっています」

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 藤波も理由は知らなかった。あれは対戦相手に対するエチケットだったのだろうか、それとも、毎回ヒモを替えるというルーティーンは試合に臨む猪木流のおまじないだったのだろうか。今頃になって、筆者は本人に聞いておけばよかったと思っている。

「猪木さんは怖かったですよ。険しいというか、ピリピリしていた。武藤(敬司)や蝶野(正洋)は猪木さんの本当の怖さを知らないんです。お前ら、猪木さんの前でよくそんなくだらないことしゃべれるなあ、って思います。タメ口までききますから(笑)。僕は猪木さんとは会話が続かない」

 藤波は新日本プロレスの立ち上げ当時を振り返った。

「あの頃、猪木さんはまだ27、8歳だったでしょう。眼がギラギラしていて……」

 1971年12月、猪木は日本プロレスから除名、追放の汚名を着せられた。しばらくアメリカにでも行くのかと思ったら、すぐに新日本プロレスの旗揚げを発表する。

「猪木さんは会社をよくしたかっただけなんです。改革してやるという思いで立ち上がった時に、1人だけ弾き出された。翌々日、僕が着替えを持って猪木さんの家(現在の新日本プロレス道場)に行ったら、ブルドーザーが土を掘っくり返していた。あそこはもともと歌手の畠山みどりさんの家で、その後、猪木さんと倍賞美津子さんが住んでいたんです。庭には大きな庭石があって、立派な池にきれいな鯉が泳いでいた。その庭が跡形もなく、更地になっていました。猪木さんは道場から作り始めたんです。レスラーを育てなくてはいけないから。僕はそこで山本小鉄さん、木戸修さんと、石ころ拾いをしていました」

【次ページ】 「夜逃げ同然で仮事務所へ」「外から殴り込みの声が」

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