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「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」

posted2022/11/20 17:06

 
「もし大怪我させていたら永久追放でしょうね」藤波辰爾がいま明かすドラゴン・スープレックス誕生秘話「ゴッチさんを投げるわけにも…」<Number Web> photograph by Essei Hara

1978年3月、日本初公開となった藤波辰巳(現・辰爾)のドラゴン・スープレックス・ホールド。相手はマスクド・カナディアン

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原悦生

原悦生Essei Hara

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Essei Hara

2022年10月1日、“燃える闘魂”アントニオ猪木が79歳でこの世を去った。その付き人からプロレスラーとしてのキャリアをスタートし、68歳になった現在もリングに上がる“ドラゴン”藤波辰爾にロングインタビューを敢行。中編では、カール・ゴッチの薫陶を受けた海外修行時代と、必殺技「ドラゴン・スープレックス」誕生の瞬間を振り返る。(全3回の2回目/#1#3へ)

「あの頃は、猪木さんの『いいかてめえら!』という怒号が響いていました。レスラーだけじゃなくて、営業にも厳しかった。『切符売れてんのか!』って」

 1973年春、坂口征二が日本プロレスから新日本プロレスにNETテレビ(テレビ朝日)とともに合流してきた。

 それまで日本テレビからさまざまな制約を受けながらNETは日本プロレスを中継してきたが、1973年4月からは新日本プロレスを『ワールドプロレスリング』として放送することになった。これで新日本は一気に攻勢に立った。

猪木がテレビの中継者に乗り込み「この画を拾え」

 アントニオ猪木の“ストロングスタイル”は時代をつかんでいった。坂口との黄金タッグ再結成の世界最強タッグ戦、「昭和巌流島」と呼ばれたストロング小林戦や大木金太郎戦は世間の注目を浴びた。

 猪木の気迫がブラウン管から伝わってきた。

「どうテレビカメラに映っているか、猪木さんは常に意識していました。カメラの背景に空席ではなく、観客がちゃんと映るように、2階席の客をそこに移動させていました。それから『カメラワークが悪い』と怒るんです。『これじゃあ、選手の動きがわからない』と」

 当時は今のように何台ものカメラの映像を保存できるシステムはなかった。中継車のスイッチャーの技量がそのまま画面に現れていた。

「固定のカメラが何台かあって、ハンディもあるわけでしょう。外に中継車が止まっていて、そこに猪木さんが入っていって『この画を拾え』って、指示するんです。テレビ局にしたら触られたくないでしょう(笑)。でも、猪木さんはそこまでやっていました」

 金曜夜8時の『ワールドプロレスリング』は脚光を浴びた。プロレス黄金時代の名にふさわしく、日本テレビが同時刻に放送していた石原裕次郎の『太陽にほえろ!』でも当時のプロレスの勢いには勝てなかった。

「僕がジュニアで帰ってきて、選手が育っていって、タイガーマスク(佐山聡)も出てきて……。僕と長州(力)がやって、視聴率が20%に達して、25%を超えることもあった。20%を切ったら、猪木さんは機嫌悪かった。六本木のテレ朝の玄関に入ると、視聴率が張り出してあったんです。22%、23%って。僕はそれを見て、大きな顔して、胸を張って歩いていました(笑)」

【次ページ】 カール・ゴッチの熱血指導で「体がバキバキに」

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