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アントニオ猪木は死の4日前に“ある言葉”を遺していた…燃える闘魂を50年撮り続けたカメラマンが語る「猪木流・お別れ会」の夜
posted2022/10/05 11:07
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
アントニオ猪木が10月1日の朝、死去した。79歳だった。いつかこの日が来ることがわかっていたとはいえ、訃報に接して私は全身から力が抜けていくのを感じた。“燃える闘魂”がついに死を迎えてしまった。
その日の夜遅く、私は猪木さんの顔を見に行った。玄関を入って、左を見る。左奥の部屋に、猪木さんのベッドがあったからだ。そのベッドに、変わらずアントニオ猪木は眠っていた。闘病中と違うのは、掛け布団の胸の上に赤い闘魂マフラーが置かれていたことだった。ベッドの手前には焼香台がある。
「猪木さん」と呼び掛けても、先日まで巧みな寝返りを打っていた闘魂は、なぜか動こうとしない。
9月27日、アントニオ猪木と最後に会った日
猪木さんに最後に会ったのは死の4日前だった。9月27日、古舘伊知郎さんらと一緒だった。
猪木さんは少しずつしか食べられないけれど、好きだったホテルオークラの冷製スープ(ビシソワーズ)、スモークサーモン、オニオンリングをおいしそうに頬張っていた。アワビの炊き込みご飯を一口サイズにした小さいおにぎりも2つ口にした。飲み物はずっと炭酸水だった。
予定の時間に家に行くと、猪木さんは眠っていた。前の晩から眠れず、夕方まで起きていたという。少し長い時間、椅子に座っているという何でもないようなことでも、猪木さんにとっては苦痛を伴う。声をかけた友人が訪ねてきて食事をしても、ある程度時間が経つと猪木さんはベッドに戻って横になる。横になった状態で、話を続ける。だが、この日はちょっと違った。猪木さんは食事の後に1時間ほどベッドで過ごすと、またテーブルに戻ってきた。
そして体調が良くなかったにもかかわらず、「いたのか」と嬉しそうな視線を投げてきた。
さらにその数日前、何人かで猪木さん秘蔵の超特大4.5リットルのワインやテキーラなど、5種類もの酒を酔いつぶれるほど飲んだ。その時のワインボトルの写真を猪木さんに見せて、私が帰宅途中に記憶がなくなったと報告すると、「オレは酒で記憶をなくしたことは一度もないよ」と微笑んだ。
私はソ連時代に同地を訪れ、ウォッカで乾杯を繰り返す猪木さんの姿を思い起こしていた。