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「まだ実感がないんです」藤波辰爾が語るアントニオ猪木の思い出と“新日本プロレス創成期”「馬場さんと猪木さんは兄弟のように…」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/11/20 17:05
2022年7月29日、故・アントニオ猪木さんと藤波辰爾が最後に会った日。筆書きのサインを手に記念撮影を行った
藤波は50年以上前の野毛の風景を思い起こしていた。
「ないもの尽くしですよ。まだ、後の猪木さんじゃないから、そんなにスポンサーもいない。大変でした。資金集めに猪木さんは奔走していた。でも、先行きは全然怖くなかった。道場を作ること、いつ旗揚げ戦ができるかが気になっていた。ブラジルにいた猪木さんの弟の啓介さん、ケイちゃんって呼んでいたんですが、電話があって『兄貴は藤波さんのことを気にかけていたよ』って」
「夜逃げ同然で仮事務所へ」「外から殴り込みの声が」
日本プロレスの新社屋は代官山の一等地にあった。渋谷の並木橋から代官山に上がって行ったら、左に洋食の『小川軒』があり、その横のガソリンスタンドを左に入って50メートル進んだ右側に、地下1階地上4階のビルがあった。路地を挟んでレスラーの寮も同時に建てていた。
猪木は、通りを挟んだ目と鼻の先に新日本プロレスの仮事務所を構えた。
「あれは猪木さんの意地だったんでしょうね。僕は目の前の日本プロレスの寮から夜逃げ同然でそこに移りました。日プロにしたら『あの組をぶっ潰せ』くらいの勢いでしたよ。木戸さんは川崎に家があって、小鉄さんも赤坂に家があったけれど、僕は金もないし住むところがないから、2LDKの事務所のソファで寝ていた。すると外から“殴り込み”の大きな声が聞こえてきた。タチの悪い先輩たちが、誰とは言いませんけれど、噂ではいろいろなものを持ってきてね(笑)。そういう時代でした。出て行ったら、袋叩きだったでしょうね」
新日本プロレスは思うように興行日程が組めなかった。
「プロモーターには日本プロレスから圧力がかかっていて、後にその流れで全日本プロレスを旗揚げする馬場さんについていくことになるから、新日本プロレスの興行はほとんど誰も買ってくれない。実際に行ってみると体育館は閑古鳥ですよ。猪木さんが観客の数を数えて、『小鉄、もう帰るぞ』って。『1人でも、2人でも見に来ているんだから、帰っちゃダメです』って小鉄さんが猪木さんを説得していました」