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「まだ実感がないんです」藤波辰爾が語るアントニオ猪木の思い出と“新日本プロレス創成期”「馬場さんと猪木さんは兄弟のように…」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/11/20 17:05
2022年7月29日、故・アントニオ猪木さんと藤波辰爾が最後に会った日。筆書きのサインを手に記念撮影を行った
2回目は、それから約40年後のサインだった。藤波は嬉しそうに色紙を手に猪木さんと記念写真に納まった。猪木さんは横になっていたが、そのまま「ダァーッ!」のポーズをサービスしていた。
「昔、地方で猪木さんの部屋に色紙が200枚、300枚積んであった。気の毒だから書いたことありますよ。猪木さんがかわいそうで。書きましょうか? 目をつぶっても今でも書けますよ(笑)」
7月29日は、藤波にとって忘れられない日になった。
「あの日、話をしている時もベッドで寝ていた猪木さんが、僕が帰る前にテーブルまで歩行器を使って歩いてきたでしょう。びっくりしました。これからでしょうね。時間が経って猪木さんの偉大さが嫌というほどわかってくる。今まではなんだかんだあっても、猪木さんがいてくれた。支えだった。もっとしっかりしなきゃダメですね。自分も試されるだろうし、プロレス界も試されるね」
猪木さんの死に直面した藤波は、リングに上がり続ける覚悟を一層強めた。
「馬場さんと猪木さんは兄弟のように仲が良かった」
1963年12月、力道山が突然の死を迎えたとき、プロレスの灯が消えるのではないかと危惧された。だが、吉村道明や豊登道春がプロレス界を支え、ジャイアント馬場へとつないだ。そして、馬場時代から、馬場・猪木時代、そして猪木時代へと時計は針を進めた。1998年のアントニオ猪木引退、1999年の馬場さんの死、そしてついに猪木さんの死。また、プロレスは大きな岐路に立たされている。
「オカダ・カズチカや棚橋もいるけれども、環境が違うから」と藤波は語る。
「新日本プロレスでは最初は猪木さんが社長でトップ、次の社長が坂口(征二)さんになって、それから僕だったんだけれど、『全日本に負けるな』ってずっと言われてきた。今はレスラーが社長じゃないから、踏ん張る部分が薄いかもしれない。本来、プロレスは仲良しこよしじゃダメなんです。今はひとつの大会を成功させるために、団体の垣根を越えて、互いに無理やり集まっている状況だから。でも、踏ん張ってほしい」
藤波は「自分もいろいろな団体のリングに顔を出していますが、こういう状況を長く続けてはいけない」と考えている。
「日本プロレス時代の馬場さんと猪木さんは兄弟のように仲が良かったですよ。二人は寛ちゃん、馬場さんって呼び合っていた。猪木さんは馬場さんを立てて、試合が終わった後、風呂場で馬場さんの背中を流していた。力道山先生はいい2人を作ったなあ、と」
68歳の藤波はそんな時代を回想していた。12月に誕生日を迎えれば、69歳になる。