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ドラフト史上最多の8球団競合→ロッテ入団拒否「あの頃、ツンツンにとんがってましたから」小池秀郎の実家に届いた抗議の電話 

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中村計

中村計Kei Nakamura

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photograph bySankei Shimbun

posted2022/10/20 11:03

ドラフト史上最多の8球団競合→ロッテ入団拒否「あの頃、ツンツンにとんがってましたから」小池秀郎の実家に届いた抗議の電話<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

ロッテに交渉権が渡り、苦い表情を浮かべる小池秀郎(亜細亜大)。「ドラフトの時期になると、決まってあのときの映像が流される」

 当時は前年、上宮高の元木大介が巨人入りを熱望したように、実力者が希望を口にするのは当たり前だった。そして、元木がダイエーの1位指名を蹴ったことなどもあり、球団側も“逆指名”選手を避ける傾向があった。

「僕も『逆指名してくれよ』っていうメディアの重圧に、じゃあ、言っとくかってなった部分はある。休日に渋谷に遊びに行ったら、うしろから新聞記者が肩を叩いてきて『ちょっと、逆指名してよ』って言われたこともあるくらい。誰アンタ、みたいな感じですよ」

 結局、小池は社会人野球の松下電器に進む。だが、1年目に左ヒジを故障したこともあり、大学時代のような際立った成績は残せなかった。そうして迎えた2年後のドラフト会議は、近鉄がひっそりと単独で1位指名した。

「社会人1年目はきつかった。練習試合で打たれたぐらいで新聞に書かれましたから。それぐらい、いいだろ、って。みなさんは僕に生意気な印象を持ってると思うんですけど、気が小さいところ、いっぱいあるんです。だから記事にもいちいち反応しちゃう。2度目のドラフトは『12球団OK』と言っていました。まだ自分を1位指名してくれる球団があったことが何より嬉しかったですね」

「ロッテのスタンドは騒いでましたよ」

 プロ入り後、最初の4年間は最高でも5勝どまりだったが、5年目の97年に15勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得。しかし翌年から少しずつ成績が下降し、中日、再び近鉄、楽天と渡り歩き、05年にプロ野球人生を終えた。

「やっぱりプロは違った。学生時代とボールの質自体は変わってなかったと思います。97年は右打者の外に逃げていくシンカーを覚えて、ポンと勝った。でも次の年からは研究されてダメだった。もちろん、大学卒業してすぐにプロに入ってたらどうなってたのかな、というのはあります。でも……わからないですよね、結果は。

 プロ入り後はロッテの方と会って話すような機会はありませんでした。ただ、スタンドは騒いでましたよ。一度、僕が投げる日にスタンドに『小池、死ね』っていう横断幕が掲げられていて、野茂が『あの前いって頭下げてきて』って(笑)。ようせん、って断りましたけど。近鉄の選手は、気さくで温かい人ばかりだった。本当にプロに入ってよかったと思いますね」

●初出:2010年10月14日発売・Number764号「その時、球史が動いた」より

(#2へつづく)

#2に続く
「よっしゃー!」PL学園・福留孝介に拒否された近鉄・佐々木恭介の証言「ぼくは孝介のファンだから」ドラフトのわだかまりを超越した師弟愛

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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