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弱小野球部だった下関国際が“甲子園決勝”にたどり着くまで…“部員5人時代”を知る元ロッテ宮崎敦次の証言「監督の言葉をずっと大切にしてきた」
posted2022/08/23 17:02
text by
梶原紀章(千葉ロッテ広報)Noriaki Kajiwara
photograph by
Hideki Sugiyama
今年も夏の甲子園が終わった。
毎年、甲子園の熱い戦いぶりを見ていると、選手たちから聞いたエピソードが頭の中に浮かんでくる。今年は、かつて千葉ロッテマリーンズに4年間在籍していた宮崎敦次投手のことを思い出していた。
この夏、初めて決勝戦に駒を進めた山口県の下関国際高校は宮崎の母校だった。広島国際学院大学を経て、2014年ドラフト6位でマリーンズに入団した左腕。一軍では8試合に登板。18年限りで現役を引退し、現在はチームスタッフとして広島東洋カープに在籍している。
「帰宅部でいいやあ」中学時代はずっと補欠
高校時代に自宅にかかってきた1本の電話が宮崎の人生を変えた。
下関国際高校に入学した2008年4月のこと。中学校までは軟式野球の補欠一塁手。高校で野球を続けようという意志はまったくなかった。特に部活動に入るという思いも湧いてこない。学校の授業を終えて自宅に帰宅すると、電話が鳴った。
「帰宅部でいいやあという感じでした。あの電話がなかったら、その後の自分はない。本当に縁というか運命です。プロ入り後もその感謝の気持ちを忘れたことはありません」
電話の相手は、野球部の坂原秀尚監督だった。当時の野球部は甲子園常連校となった今とは違う。3年生8人、2年生が2人。新入生がやってくるこの時期、坂原監督は部員集めに奔走していた。中学時代に野球経験がある男子を探して、片っ端から電話をかけていたのだ。
そんな坂原監督の熱心な誘いに心を動かされた宮崎は、まずは軽い気持ちでグラウンドまで足を伸ばした。これまで投手としてマウンドに上がったことはなかったが、とりあえずブルペンで投げさせられた。
「今までなんで投手をしていなかったんだ? いい球じゃないか! もったいない」
気持ちを乗せられるような言葉を次々とかけられ、気がついたら入部していた。